光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目

少し間が空いてしまいましたが、先日行ってきた光岡先生の講座を振り返っていきたいと思います。

以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI

なぜか私なかなか予定が合わなくて、せっかく会員になったのにいつも基礎、養生の講座にしか出られておりません(涙)

今回も養生のクラスでした。


中国文化圏における養生観

韓氏意拳における養生とはなにか、養生観とはつまり自然観であり集注観ということ。

自然とはなにか、何にどう集注するのかということがつまり養生を考えるということなのだと思います。

「両儀」、「四象」における陰陽から直立二足歩行である私たちの身体観を顧みていきます。

両儀の陰陽は四足歩行の陰陽、四象の陰陽は二足歩行の陰陽ということで、2が4で4が2というのがなんか面白いですよね。

ようするに四足のときは背中側が「陽」であったのに、二足になってお腹側が陽面化した。そのことによって不都合が生じている。

背中側を陽の面としたまま直立した状態というのを、後足歩行(姿勢)というそうで、四足歩行の動物がたまに後ろ足で立っている状態のことをいいます。

つまり四足と二足のちょうど間のような身体観、それが自然、それを求めていく、ということなのだと思います。

BUGAKUでやっていることも結局はやり方が違うだけで同じところを目指しているのだと思います。

五体投地も結局四足と二足の身体観を行ったり来たりしてるということで、同じ意味なのだそうです。

それで実際四足歩行を練習したのですが、私多分4回目くらいで、今回初めて、これが四足の身体観か、というのがわかった気がします。

いや、わかったというか、これまでわかってなかったんだなということがわかったというか。。

四足の姿勢から後足姿勢、二足の姿勢へと移っていく過程で、どの段階でお腹側が陽面化するか、その身体観を行ったり来たりすることで、四足と二足の違いが見えてきたように思います。

今回新たに教わったのは、四足歩行のとき、目の前か、見えないほど遠くが観える。二足歩行のときは何歩か先が観えるというもので、たしかに!と思ったのは、私毎日五体投地を3回だけやってるのですが、3回しかやってないにもかかわらず、今何回目だっけ?ってのがいつもわからなくなるんです。3が数えられない。それは四足の身体観が影響していたのかという、エウレカ体験でした。

それで最近高橋透先生にならったしゃがみ深呼吸(私が勝手にそう呼んでます)も明らかに四足の身体観だなと、しゃがんで深呼吸している時、あからさまに背中側に気がいきます。お腹側には全然いかない。

呼吸という観点は歌にもものすごく大きな影響を与えると思いますが、四足の呼吸観と、二足の呼吸観はまるで違います。これは習ったことではなく、やってみた私の経験ですが、四足のときは上下に呼吸してる感じ、二足のときは左右に呼吸してる感じです私の場合。

これも境目を探ってみると面白い、二足と四足の中間の呼吸が観えてくるでしょうか。


挙式

というのは結婚式のことではなくて、韓氏意拳の基本的な稽古法である站樁の一番最初の式です。

どういうものかというと、「立って、手を挙げる」というものです。

なんじゃそりゃあという感じがすると思いますが、やってみればわかります。「立って、手を挙げる」ということがいかに難しいかということが。

ちょっと私一生かかってもできないかもしれない。と今回思いました。

つまり韓氏意拳で言う「立って、手を挙げる」というのは、「自然に」立って手を挙げるということで、これがもう本当にできない。

今回初めて光岡先生に手をとってもらって、挙式を行うということができたのですが、ほんとに素晴らしい経験でした。

手を挙げようとしなければ手は挙がらないし、手を挙げようとすると手は挙がらないんです。

何言ってるかわかんないですよね笑

手を挙げよう、という「意」はないとあかんけど、それが「意識」に変わった瞬間に手が挙がらなくなる。つまり自然がどっかいっちゃう。作為になっちゃう。

「意のままに」というのがほんとその通りという感じで、意に任せられればいいんですけど、生活習慣によって、「意」が「意識」にすり替わってしまう。

頭で意識した途端に身体はバーチャルになり、自然を失う。

それで反対に、自然とはどういうことかというのを教わるため、光岡先生の手を取らせてもらって、挙式をやってもらいましたが、これがもう本当に凄い。

めちゃんこ凄い。

質感がまるで違う。

まるでトコロテンとナマコの和え物のような、違うあいのこのような食感、違う触感でした。

今回得たことで一番大きかったのはこれでした。

「こ、これが手を挙げるということか・・・」

という体験でしたね。

もう、ようするに私は今まで、立つことも、手を挙げることすらもできずに指揮を振り、歌を歌っていたということです。

挙式って韓氏意拳の基本のキのkみたいなことですから、せめてそのくらいはできるようになりたい、しかしできる気はしない。と思った回でした。