光岡英稔 韓氏意拳講座|10回目:BUGAKU講座|13.14回目

光岡英稔 韓氏意拳講座|10回目:BUGAKU講座|13.14回目

先月は全然参加できなかったのですが、今月は2日で3コマ受講してきました。

土日の方にこのところ全然出来ずにいまして、連続受講もものすごく久しぶりだったもので、内容の多彩さに目が回っておりました。

今月の東京での講座は、
水)GPC空手
木)GPC剣術
金)GPCシラット GPC韓氏意拳
土)韓氏意拳(2コマ)
日)BUGAKU(3コマ)
月)GPC八卦掌
(GPCはグループプライベートクラスの略)

となっておりまして、まず光岡先生が鉄人過ぎるのは言うまでもなく、某I毛さんとかS水さんとかは全部参加したのかしらとか、受講する方のタフさもエグいです。

私なんか2日、3コマで全身疲労で翌日起きるのも億劫でした。。。


【これまでの講座レポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1
韓氏意拳講座|8回目https://is.gd/ayTQMA
BUGAKU講座|11回目https://is.gd/ayTQMA
韓氏意拳講座|9回目https://is.gd/NCZKxY
BUGAKU講座|12回目https://is.gd/zHtNYL


剣術

木曜は剣術のクラスでした。このクラスに参加するのは初めてで、一応私元剣道部ということもあって楽しみにしていました。

講座はまず「線」のことから。マスキングテープで直線を途切れ途切れに作ると、目に見える線と線の間に、目に見えない線が現れる。目に見える実線を設けることによって、目に見えない線の世界へ導入するという内容でした。

私、後から考えると非常にアホな質問をしました。

「ああ、正中線とかって言うときはその目に見えない線のことを言ってるんですね?」

そりゃそうだ笑

正中線が実際に書かれてたら相当面白い笑。

そんなやつおらへんやろ、ちっちきちー。

ただ、この見の目(顔についてる目)から観の目(心の目のようなもの)へという流れ、私にとっては新鮮でした。

というのも観の目の稽古として観法をやるとき、見の目は大体閉じてるんですよね。見の目と観の目を混同しないようにということだと思うのですが。

なので、見の目でこう実線を見ていって、実線と実線との間にある「空間の線」を「みる」というのが、自分としては見の目で見ているつもりが、いつの間にか観の目で観ている。

これがなんだか面白くて不思議でした。あれ?今目で見てるよね?あ、でもここに実際に線はないから目では見えないのか。そうかそうか。などという自問自答をしておりました。

それで試し稽古で見の目で見ている時と観の目で観ている時の違いというのを経験していきます。

実際に試してみると火を見るより明らかなのですが、自分の身体で経験したことのない人にとってはただのオカルトです。これはBUGAKUの全ての講座に共通することですが。

だからいつも、こうして言葉にすることに虚しさを感じながら書いているのですが、講座に参加された方が読んでくださっていたり、極稀に私きっかけで武術に興味を持ってくださる方もいるので、無駄ではないかなあと思い、続けております。

しかし本当に自分の身体で体験しないとわからないので、是非みなさんに体験していただきたいです。ここで学べることは少なくとも都市部で文化的な生活をしている方全てに有益な内容です。特にここ最近よりその価値は高まっていると思います。

いやー例えるなら、宮本武蔵が毎月東京で講座をやってると思ってみてください。みんな血眼で馳せ参じますよね。あと多分宮本武蔵よりはるかに教えるの上手いです笑

講座の内容に戻りますと、線の応用として「卍」を壁にテープで書いて、それを見る(と同時に多分「観る」)ことによる身体観の違いもみていきました。

これも不思議だったのですが、今この卍を確かに目で見てる、が線と線によってできた空間を観の目でも観ている、だから身体観が変わる。ということなのか、どうかちょっと自信ないです笑。質問しとけばよかった。。

そして剣術の型を教わって、それをまた卍を見ながら行う、ということもやりました。

型のことで新たに発見だったのは、型をちゃんとやろうとすると、「え、無理じゃない?変じゃない?こんなきついの?」ってことがあるのですが、それを疑問に思って、今の自分が普通だと思うやり方に変えてしまうと、型が意味を為さなくなる。

型はその型ができる身体を導くものでもあるということで、これは声を出すときも、ついつい私たちは、楽にできる方法を探そうとしてしまうのですが、今の自分の身体で無理なくできることをやってるだけではなーんも変わらんのですよね。え、これ無理じゃない?きつくない?あかんくない?っていう所を通らないといつまでもできるようにならない。(ただその結果ほんまにあかんこともあるのでその見極めが重要)

最近mahoneさんのところでガナリを教わってるんですが、これはもうこれまでの自分の身体が、あかん、そっちいったらあかん、そっから崖や!って悲鳴を上げるその道を全速力でダッシュするみたいな練習方法で、今まで本当にいろんな声を出しまくってきたんですが、まだここにこんな道があったのかと愕然としたんですよね。

ちょっと脱線しましたが、身体の持つ可能性、ポテンシャルを自分の意識、無意識がいかに閉ざしてしまっているかということなんだと思います。


シラット

2日目の午後はインドネシアの武術、シラットのクラスでした。

講座はまず観法から。

毎朝の稽古の中で私も色々なやり方で観法をやっているのですが、光岡先生の導観法はいつも本当に芸術そのものでありまして、魔法のように身体が変化していきます。

また、こういう観方もあるのかと、いつもその観方のバリエーションにも驚きます。今回はシラットの講座ということで、その身体観へと導くような観法でした。

例えば、右手の甲から背中を回って左足の甲を観るというときには、身体の中に竜巻が起こったかのように、ダイナミックに回転が起こりまして(実際の動きではなく)、ぶっとびました。

うん。トべるんですよねえ。観法って。クスリに溺れるより、酒に溺れるより、観法した方がいいよ。お金かからないし。

ねえ?怪しいでしょう?怪しいんですよ我々の生きている世界は。

世界は人知が及ばないほど複雑怪奇で、生きることはそれを受け入れることから始まるのじゃ。

はい。

観法に続いて、シラットの礼式と型を教わりました。

一通り教わった後、おもむろに先生がガムランの音源を流し始めたのですが、うんうん雰囲気出るよねとか思ってたら突然モーツァルトに変わったんですね。

なんか操作ミスかなとか思ったのですが、えらいもんでモーツァルトが流れている間みんな型の動きがピタッと止まって動けない笑

私はこのとき型を初めて教わったので、思い出しつつやってるとそうなのかと思いきや、みんなそうなんですよね。スルスルと流れるように型をやっていた人がモーツァルトによってピタッと動きを止められる。

文化と身体観と武術、これらは分かちがたく結びついているんですね。だからこそ混ぜるな危険。

しかしやってるのが日本人である私たちだからということなのか、能の囃子だと意外としっくりきちゃってる。

これは西洋音楽を日本人である私たちがやるときにも言えることなのではないかと思います。西洋音楽をやるのだから、西洋の身体観でそれをやるのは一つの方法だしとてもオーセンティックだと思うけど、やってるのは私たち日本人なのだから、どうやったってそのバックグラウンドが投影されてしまう。それを否定しないやり方で私は西洋音楽と向き合いたいと思ってます。


韓氏意拳

この日の夜のコマは韓氏意拳でした。韓氏意拳自体かなり武術界ではユニーク?な方な武術だと思いますが、その中でも光岡教室の内容は尖ってます。

今回は最初に観法、そして三元分立のお話、そしてシュワイジャオの型、でした。

(韓氏意拳やってねえ・・・)

そう。站樁も形体訓練もやらなかったんですが、私が参加した韓氏意拳講座で最後に站樁をやったのは多分2年前くらい・・・?

調べてみたら2020年の10月が最後でした笑

今回特に私にとって衝撃的だったのは、三元分立について。

気と、感覚と、動きとがそれぞれ別々にあって、混同しないように、くらいの理解だったのですが、その奥にとんでもない世界が広がっていました。

「外」としての行動・行為、「内の外」としての感覚、「内の内」としての気の世界がそれぞれ分かれてあるというのが三元分立で、更にこの「外」「内の外」「内の内」の真逆に「内」「外の内」「外の外」があって全体では6つの世界があると。

これを詳説するのはちょっとはばかられますし、容易にはわからないことなので省きますが、テンセグリティの梶川泰司さんと光岡先生が、一見真逆のことをしているように見えながら、なぜ響き合っているのかということがバチイっと理解できました。

まさに真逆だからこそ交わっている。

「内の内」を極める光岡英稔と「外の外」を極める梶川泰司。

声や音楽の世界で、前者の立場を担いたいなと思いました。後者はきっと岩崎ひろきさんが担うのだと思います。


お知らせ

Salicus Kammerchor第7回定期演奏会
ハインリヒ・シュッツの音楽vol.2
二人の天才
​〜モンテヴェルディ→シュッツ〜

【日時・会場】

5月20日(金)19時開演
日本福音ルーテル東京教会
チケット予約:https://tiget.net/events/160766

5月22日(日)14時開演
台東区生涯学習センター ミレニアムホール
チケット予約:https://tiget.net/events/160767

光岡英稔 BUGAKU講座|12回目

1週間以上経ってしまいましたが、またBUGAKUに出てきましたので、レポートしようと思います。

今回はハワイアン八卦掌でした。巡り合わせで私今回八卦掌初めてで、とても楽しみにしていました。


これまでのレポートはこちら

BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1
韓氏意拳講座|8回目https://is.gd/ayTQMA
BUGAKU講座|11回目https://is.gd/ayTQMA
韓氏意拳講座|9回目https://is.gd/NCZKxY


ハワイで独自の進化を遂げた八卦掌がハワイアン八卦掌なのだそうですが、今回そのあたりの説明は詳しくやらずに、いきなり「歩」の稽古が始まりました。

45度内股を基本にして、左右に体重移動していき、その際体重が乗っていない方の足を乗っている方の足に揃え平行にします。

この内股という身体観が私には新鮮で、これまでのどの経験とも違う不思議な感じがしました。またこれ結果的に後ろ重心になって、前足は重心ゼロになります。これもこれまでにない経験でした。

特に前回韓氏意拳講座で教わったシュアイジャオの左右転換の稽古は、45度という角度は一緒ですが重心は前だったので、なかなか混乱しました。

いろんな系統の武術をやっていると、これはこれ、それはそれと身体がことわけておくというそういうスキルも必要だなと思いました。頭ではなく身体で。

しかしどういう系統の武術でも共通してるのは、自分の身体がどうなってるかということを認識できなきゃだめということで、今回も、私45度の足の角度は最近シュワイジャオで練習してたから大丈夫かと思いきや全然でした笑

いや、これ45・・・アレエ?×100

でしたねえほんとにもういい加減。


それでもう足だけでもそんな有様なのですが、それに手が付きます。同じ左右の足の切り替えに対して、手の方は2種類、足と同じ方向に手を出すパターン(Open palm change)と足と反対方向に手を出すパターン(Close palm change)。

うちで振り返って稽古してみるとそれほど複雑でもないのですが、初見ではマジで大混乱でした。


歩く

で、それをこう円周を歩きながらスイッチしていくという稽古をやったのですがもう全然出来なかった笑。

手を円の内側に向けたまま歩くということはつまり、内側に対して足がクロスしたりしなかったりするというわけで、それはつまり上のOpenとCloseが交互に起こっているということに気づくまでに5分笑

スイッチするときはまず止まったときにOpenかCloseかによって転換する方向が変わるということなんですねえ。初心者なんで考えてやらんとできんです。。。。ブスブスブス。。。。ボン!

いやいつもそうなんですけどね。講座に参加すると、わからん!できん!ことばっかりなのですが、今回はもうBUGAKUに最初に参加した時のことを思い出しましたね。うん。BUGAKUってこうだよねえ。。


引力と張力|テンセグリティ

もうすでに私の脳はパンクしているのですが(脳でやるからそうなる)、つづいて二人組で前手同士を合わせ、後ろ手は棒の端と端を持って、前手は軽く押しながら、後ろ手は軽く引っ張り合いながら回転するということをやりました。

これですね。簡単に見えますがこれめちゃくちゃ難しいです。まず目が回ります笑。

ほんとまず単純に目が回って気持ち悪くなっちゃうんですよね。

ちょっと思ったんですが、嫌がる馬に無理に乗ろうとすると馬が超グルグル回るんですよね。そういうときにこの稽古は役に立つな笑。来年のお正月にはこの稽古の成果を確かめられるでしょう笑

それで三半規管鍛えながら回るこの稽古なのですが、中心を維持するというのがものすごく難しい。押してる前手(張力)と引いている後ろ手(引力)のバランスが絶妙に取れていないと、二人が同じ円周上を歩けない。

上手くピタッとバランスが取れると・・

もしかして私たち・・・テンセグってる?!

ってなるわけですね。自力だけでも、他力だけでもないパリントローポスハルモニエ。

張力と引力があってはじめて中心が生じて、中心が生じてはじめて円周が生まれる、それではじめて回転するという運動が生まれると。

もうこれは音楽の話をしているとしか思えないですね。

アンサンブルグループの練習に取り入れたらいいと思う。


Vortex 渦

渦は上下逆に回転している。

これがどうも肝らしく、言われてみれば確かに、上下同じように時計回りで回転していたら渦にはならない、上が時計回りなら下は反時計回りになってはじめて渦ができる。

今回の内容の中では、close palm changeの時にそのような動きが起こるのですが、足が手の方についていっちゃうと形が崩れてしまうんです。手と足が反対の動きをして足を残さないといけないんですね。

この「渦」の考え方も、音楽の話だなあと思いました。

私は今まで音楽の中で、「動き」をもたらすのは緊張と弛緩であると言ってきましたが、多分それだけじゃないですね。

まだ全然考えまとまってないですが、引力と張力があって生まれる円運動、またその複合としての渦、そういう種類の「動き」もありますよね。音楽の中で。例えばペルトとかシサスクとかの音楽ってそういう風にして動いてる。気がします。(多分1年後くらいに閃きますのでもうしばらくお待ち下さい)


今回はもうなんというか、今はわからないけど、これからわかることに対する示唆にめちゃくちゃ満ちていた内容でした。

今回学んだことはきっと今後つながってきて、音楽の新たな側面を観る鍵になる気がします。

それで、私は音楽家なので、光岡先生の言ってることが音楽の話として聞こえてくるわけなのですが、美術家なら美術の話として、思想家なら思想の話として、政治家なら政治の話として聞こえてくるんだと思います。

どんな小さなひとつの武術のテクニックの話をしていても、それが武術だけのことを言っているようには思えない。それが光岡先生の凄みだと思います。含蓄といえばそれまでですが、少なくとも私にとっては、それが光岡先生から武術を学びたいと思える大きな要素だと思います。

なぜ武術をやるのか、ぼんやりいつも考えていることですが、今の所の私の答えは「生きているから」だと思ってます。


さて、本業の方ですが、今月19日に立教大学である本番に向けて準備を進めています。

こちらは一般公開はしないことになって、後日配信という形になりました。

また情報が出ましたらお知らせいたします。おそらく前回のようにyoutubeで限定公開になるのかなと思っております。前回のは3月末まで見れますので、まだの方はぜひ→http://rikkyo-kiriken.com/events/index.php?QBlog-20210802-1

シャイトのコンツェルト、歌8声楽器8声の非常に豪華な編成です。コルネットとサクバットと一緒にやるの初めてなのでとても楽しみです。

あとはまだ先ですが5月のSalicus Kammerchorの演奏会、こちらも定期では初めての試みで楽器を入れます。

実はまだ内緒ですがカンタータプロジェクトへの布石としてこれから楽器と一緒にやる演奏会を増やそうと思ってます。こちらも楽しみであります。

Salicus Kammerchor第7回定期演奏会
ハインリヒ・シュッツの音楽vol.2
二人の天才
​〜モンテヴェルディ→シュッツ〜


【日時・会場】

5月20日(金)19時開演

日本福音ルーテル東京教会

チケット予約:https://tiget.net/events/160766

5月22日(日)14時開演

台東区生涯学習センター ミレニアムホール

​チケット予約:https://tiget.net/events/160767

光岡英稔 BUGAKU講座11回目|韓氏意拳講座7回目

先週末金曜日にまた光岡先生の講座に行ってきました。

午後にBUGAKUのプライベート講座、夜間に韓氏意拳の講座だったので、タイトルが長くなってしまいました。。

前回の講座参加から約2ヶ月あいてしまって、ちょっと不安がありましたが、今回もがっつり学んできましたので、私の理解している範囲でレポートしていきたいと思います。


【これまでのレポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1


止観法

今回のBUGAKUの講座はまず観法から始まりました。

観法というのは自分の身体を観ていくというもので、シンプルだけど奥が深い、BUGAKUにおける基本にして奥義、みたいなものです。

観ていくことで身体の状態を変える。

その観法の新バージョン「止観法」。

とめるという字ですが、ここでは「やめる」という意味なのだそうで、

「右手が、右手であろうとしていることを、止める」

と言われた瞬間総毛立ちました。

わお。わしの右手は、右手であろうとしとったんか。ご苦労じゃったなあ。

と思いました。

こんな調子で、全身の各部分を観法で観ながら「〜であろうとしていること」を止めていきます。

家帰ってから何度もやってみましたが、私の場合、目と脳がなかなか止めれないようでした。

しょうみな話、右手が右手であろうとしていることを止めても、右手は在るんですよね。無くなったりしない。ということは右手であろうとしていることは余計なことなので、止める。余分を無くすことで、ポテンシャルを活かす。

そういうことなのだと思います。

私たち、父であったり、母であったり、子であったり、教師であったり、自衛隊員であったり、ビートボックスラバーであったりしますけど、過度にそうあろうとすることは負担になりますよね。ときどき息苦しくなる。

身体にもそういう思いをさせていたのかもしれないなと思いました。

わたくしこの2年ほど毎朝稽古やってるんですけどその中で最近四足で家を歩き回るというのやっていまして、この止観法で手が手であろうとすることを止めたら、四足で歩くのが楽になりました。手であろうとしたまま前足として運用するのはやっぱり無理があったんだろうなと思います。

多分こういうことがしょっちゅう起こってる。日々の生活のなかでみつめていきたいと思います。


受け入れて、結んで、ほどく

後半はフィリピン武術の組み手?のようなことをしました。

なんとなく周りから見ていると一見アルプス一万尺の一種かなと思うようなリズミカルな動き。歌でも合わせてやると良さそう。

ナイフでの攻防を前提としてもので、もうそういうシチュエーションになったらそういう動きが出ちゃうっている「手癖」をつけるということでしたが、ガチで丁寧で、正確にしかもリラックスして、というのが本当に難しかったです。

雑談しながらぱっぱっぱっと何時間でもできるような感じで、実際雑談しながらやってみたのですが、その中でいいかげんにならずに正確に動くというのはこれ日々やってないとできるようにならないのではないかと思いました。

終盤で、実際に練習用のナイフを持っての稽古も行いましたが、デモンストレーションで2回ほど死にました。

腰をぶすっと刺されたのと首をスパッと切られたのですが、首は私が持ってるナイフで切られたんですね。

ほんとアニメかCGみたいでした。自分の手がどういう軌道で、どのように自分の首を切ったのか、全く認識できなかった。

速さと正確さが尋常じゃない。

きれいに、切れましたね。と言うと、いや、動脈は外してる。とのこと。練習用のナイフですが、一応外してくださったみたいです。。。

このレベルの使い手に暗殺依頼されたらひとたまりもないですね。暗殺者に狙われないような生活を送ろっと(向上心はどこに)


黄帝内経

ここからは韓氏意拳の講座の内容です。

中国文化の背景から韓氏意拳を考えるというのがテーマになっていて、四足の身体観から進化の過程を追いながらのアプローチは、黄帝内経の考え方がベースになっているそうです。

四足から後足歩行、道具の経験を経て二足歩行へと進化していくという過程を追うように試し稽古を行うと、人間の身体が持っている特徴を発見することができます。

いつも書いてるような気がしますが、これは経験してみるとなるほどそういうことかとわかるんですけど、経験してみないと絶対わからないと思います。多分。経験なしに理解しようと思ったことがないのでわかりませんが。。

これらの稽古をやっている間、光岡先生に「最近五体投地はやってる?」と聞かれまして、やってますよと答えると「伸びる方はやってる?」と更に聞かれまして、伸びる方、、やってないですけど、伸びる方もやったほうがいいんですか?と聞くと、「いや、聞いてみただけ」とのこと。

五体投地から站樁

きいてみただけかーい!というツッコミを心に秘めながらおりましたら、なんと五体投地から站樁への入り方という全く想定外の流れになりました。

私がいつもやっている、仏教系の五体投地には、王向斉の站樁と親和性があるのだそうです。

そうなるとやはり気になるのは、韓氏意拳の站樁にはどうやって入ればいいのかということ。

質問すると「それは明日やろうと思ってたんだけど・・・今日もやるか」

いや質問してよかったー翌日の講座には行けなかったので。来月まで悶々としながら生きるところでした。

そこで出てきたのが伸びる方の五体投地、それは密教系の五体投地なのだそうです。

徳久さんがよくやってるトゥバ式の五体投地にかなり近かったです。

確かに言われてみれば、地面に両手をびたーっと伸ばすこの形、挙式に近い。。

これなんですよね。言われてみて、やってみて初めてなるほどとわかる。これを自分の感性(と観性)でみずから発見するというのは一体どういう仕組なんだろうと思うのですが、自分の身体との深い対話によって導かれるものなのでしょう。やはり観法。これを深めないといけないんでしょうね。

楽譜と対話しながら、そこに隠されたことわりを発見するのに似てるのかもしれない。ただ楽譜は見えるけど身体は見えない。身体を観る目を養わないとあかんのです。

目に見えてる世界は世界の1%なんだろうな。

ということで今まで私は意拳と相性のいい五体投地と韓氏意拳の站樁や形体訓練を組み合わせて練習してしまっていたんですがこれはチャンポンだったようです。

うーむ。

これまでとにかく習ったことで一人でできることは全部やろうと思ってやってましたが、練習メニューをもっと精査しなければならなかったです。

これ合唱のボイトレではいつも言ってることで、ここではいくつかの練習方法を提示するので、自分に合うものを選んでやってくださいってことなんですね。

ひとにはいつも言ってるのに自分のことになるとただがむしゃらにやれること全部やろうとしてた。

まあ一つにはだんだん習ったことが蓄積されてきて、一人稽古でできるものが選択できるくらい増えてきたということもあるんだと思います。

ちょっと一回書き出して整理してみよう。

それでその日に合った稽古方法を選べるようにしよう。と心に決めた一日でした。


パパド忘れてますよ

BUGAKUの講習会の終わりに、受講生の方からGENKI専用ドリンクをいただきました。

めっちゃいいですよね笑

そこでハッとしたのです。今日パパド持ってねえ。

最近パパド配りおじさんというのをやっていまして、ことあるごとにパパドを布教しています。

パパドって豆でできたうすーいせんべいみたいなもんで、油で5秒揚げるだけで二度とポテチ買わなくていい体になるっていう悪魔の食べ物なんですけど、この日に限って在庫を切らしていました。

私としたことが。。油断した。。

今度の講座には忘れず持っていこうと思います!

光岡英稔 BUGAKU講座|10回目

昨日も行ってきましたBUGAKUの講座。気づけば最近このブログの半分くらいは光岡先生の講座関係な気がしています。私は何屋で、なんのためにこのブログを書いているのでしょうか。お気を確かに。

今に始まったことではないですね笑

やっぱり演奏会自体は減ってる傾向にあって、ブログに書くお知らせが減ってきているということもあります。

かといってなんにもないかといえばそんなこともないので、もうちょいまめにお知らせブログもかかねばならんなあと思っているところであります。

とりあえず今できるお知らせは、Salicus Kammerchorの演奏動画が公開されましたよーということ

詳細→https://is.gd/wh41Eq

と、Salicus Kammerchorの演奏会情報チェックしてねーということ

https://www.salicuskammerchor.com/concert

です。

演奏動画無料なのでぜひ多くの方に聴いていただきたいです。1時間ほどの動画です。


BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
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もうBUGAKU10回目なんですね。3年前の11月に初参加だったようなので、それを思うとまだ10回目というべきかもしれません。

今回も私が経験したことをレポートしていきたいと思います。このレポートは①自分の経験したことの定着のため、②こういうことに興味を持ってくれる人が増えたらいいなあ、③こういうことを踏まえて演奏活動、指導をしてますよという宣伝のためにやっています。


武学の基礎の基礎

今回は基礎のコースから3コマ続けて受講できました。講座は武学の基礎の基礎についてのお話から。基礎の基礎と言っても、一生かけてもこれを本当に修めるということができるのか疑問、という内容です。果てしない。

それは「身体観の層位」で、私達が身体と思っているのは、身体のほんの一部に過ぎない、身体の層位の深いところにアクセスしていくことで、身体が本領を発揮する、というようなことです。

身体観の層位については以前のレポートでも書いてますので、ここでは5つの層位を羅列するだけにとどめておきます。

①思惟的身体

②物理的身体

③感覚体

④客体

⑤気之体

この5つの層位の違いを経験するために、さまざまな試し稽古を行います。

物理的に条件を同じにした上で、何をどうすると、何が起こるのか。

物理的な思考に慣れている人にとっては魔法にしか見えません。

しかしテクノロジーを知らない人にとってテクノロジーが魔法にしか見えないように、物理的思考に慣れている人にとって魔法にしか見えないことにも、物理とは違う「理」があり、それを経験した者にとっては当たり前のこととなります。

その理を経験して、稽古すれば、一見魔法にしか見えないことも実践できるようになります。

左右の気の違いだけでも、最初は驚いたし、にわかには信じられなかったです。しかし自分の身体に起こっていることなので、受け入れざるを得ません。これはもうやってみた人にしかわからない。

今回は武術として求められる身体観と、一定のルールに基づいた中で行われる競技の中では役に立つ考え方と、そういったことにも踏み込みつつ稽古していきました。

現代人はまず身体を概念化してしまっているので、左右の定位不定位が崩れ、両弱化している。だから両方を均等に筋トレしようという発想になる。両弱化した者同士では、筋トレしたほうが勝つし、その競技の中で必要な一方向の動き、のようなものに対しては筋肉を鍛えることで強くなる。

ただそれを知っていないと、ルール無用の世界においては通用しない。全く予測不可能な360°の力に対して対処できるか、舞楽で扱う強さというのはそういうこと。

またオリンピックで話題になった空手の型についても言及がありました。

個人的な思いをここに書くとあまりにもな文章になってしまったのでやめておきます笑

見栄えを良くするためには無駄な動きを加えなければならない。競技としては動きが見えなきゃだめだけど、そもそも武術としては見えちゃだめ。競技としてダメな型の方が本来の型の意味としては効果がある。

というような話でした。これは個人的なアレではなく講座の中でのお話です。

あーオブラートに包むの大変だなあああああ笑

しかしまあ音楽に置き換えますと、抽象的な意味における大きな「音楽」というのはルール無用変幻自在の本当に自由なものだと思いますが、それを人間というフィルターに通したあとのいわゆる我々の目に見え、耳が聞く「音楽」の中にはある程度のルールがありますよね。

ある民族とか、文化とか、ジャンルとか、コミュニティとか、あるいは個人の単位でも、これが良くてこれはダメっていう人間の美に対する価値観のフィルターがある。

その価値観ってやつも流動的なもので、例えば私オペラ歌手の恒常的ビブラートに対するアレルギーがあったんですけど、インド音楽を学んで、ガマックという装飾を教わったあとでそれを聴くと、ああ上手なガマックだなあって聞けるようになったんですよね笑

そんなもんだとは思うのですが、わたくし思うに、そのルールのもとで音楽をやっていたとしても、例えばバッハのカンタータをやります、というのは少なくともバッハの書いた楽譜というルールに従わなければならないわけですが、そのルールの中でしか通用しない身体観で闘うのと、ルール無用の音楽を前提とした身体観で闘うのは全く別のことだと思うのです。

バッハという個人のフィルターを通して私達の前に現れた「音楽」を見る、というより、バッハが観ていた抽象的な意味における大きな「音楽」をバッハを通して観る、というのが私の音楽観なんですよねえ。

作曲家、演奏家は音楽を濾して見える形にするフィルターなんだと思います。

脱線しましたが、そういうことも踏まえつつ私は武学をやってるのだなあと今思いました。


型・式・礼法の理解

型の意味というのは、その体系や流派に必要な身体性の獲得、相撲の塵手水の礼は肚や腰を作って筋肉によらずとも安定した身体性を身につける。

これは自然法則の発見で、こうやってこうすると、こうなる、というのを経験から抽出したものなのだそうです。

これちょっと私達からするとなかなか想像できないようなことなんですけど、光岡先生はそれもやっていて、そうしてできたのが立ちしゃがみの型なんですよね。

これはバージョンアップが続いていて、今回習ったものは前回までに習ったものとまた変わっていました。

新しい型を習うのってワクワクします。新たな身体性を獲得するということは、新たな自分を知るということですよね。今までの自分とは違う自分になる。たーのしい。

今回はこの新しい立ちしゃがみの型と、塵手水の礼を客体でやって、それぞれの効果を比べるということもやりました。

客体で型をやるのは過去にもやったのですが、その時はなかなかうまくいかなかったんです。がしかし今回はうまくいきました。

試し稽古のお相手がガチ中のガチの某Yさんだったので余計嬉しかったです。

また今回は木刀を使った型も教わって、これも朝のルーティンに加えました。家のものを壊さないように気をつけながら続けたいと思います笑

あと今回衝撃的だったのは、光岡先生のカリスティック(2本の棒、ほんとにわりとただの棒)を使ったデモンストレーションで、なんていうんでしょう蜘蛛のように地を這いながらビュンビュンカリスティックを振っていくのがマジで見えなくて、戦慄しました。

帰りに参加者の某空手の先生ともお話させていただいたのですが、あれと渡り合うためにはどうすればいいのか、それが今後の大きな課題になりそうです。

いや、いいものを見ました。

今回も文字ばっかりの記事になってしまいましたが、読んでくださった皆様誠にありがとうございます。

感想や訂正などありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

光岡英稔 BUGAKU講座|9回目

昨日、久しぶりに光岡先生の講座に行ってまいりました。前回が2月だったので4ヶ月ぶり。なかなか仕事で休日が空かないので、今回平日夜にグループレッスンを開講してくださってとても助かりました。

それでもキャンセル待ちだったので、講座の人気ぶりが窺えます。

雑談的な内容も含めて今回も大変刺激的でした。

書ける範囲でレポートしていきたいと思います。

いつものように、このレポートは全く私櫻井元希の主観によるものであり、同じ講座に参加されている方でも、へえ、そう感じる人もいるのか、というような内容のものです。

もし少しでも興味が湧くようであれば、講座に申し込んでみてください。

少なくとも今よりちっとは楽になりますよ。

韓氏意拳講座情報 http://hsyqjapan.dreamblog.jp/

BUGAKU講座情報 http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html


以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc


講座が始まる前に、受講生同士で話しているときに「Eテレ見ました」とか「You Tube見ました」とかおっしゃっていただいてとても嬉しかったのですが、徳久さんがコエダイの練習会の動画をアップしてて↓

https://youtu.be/5YQTu1j2I1s

この動画の中で、「合ってる」と思ってる音程から上がったり下がったりするということをやったのですが、これをご覧になった方から「なぜあえてずらすんですか?」というようなことを質問いただきました。

自分の音を出しながら聴くのって実は相当難しくて、絶対に合ってる自信があっても録音聴いたらめちゃくちゃってことがよくあります。なので鬼のように絶対にブレないキーボードの音に合わせて、唸りを聞きながらあえて音をずらしたり合わせたりすることで、「合ってる」という状態と、「合ってない」という状態を知る、ということをやるんです。

というようなことをお話したら、内田さんが「武術の稽古でもやりますよね、あえて間違う、間違うということを知る」とおっしゃいました。

で、それを聞いてか聞かずか、講座の中でまさにこれをやったんです。

「観て」やったときの所作と、「意識して」やったときの所作の違い。

「観る」と「感覚する」と「意識する」をことわけるのってすごく難しくて、習い始めてからずっと大きな課題としてあったのですが、これまで「意識」をしないようにしないようにという稽古ばかりしてきて、これらを切り替えるような稽古はしてこなかったんです。

なので、むしろ「観てる」状態から「意識する」状態に入るのが難しくて、「意識する」ってなんだっけ?とか思いました笑。ただこれも層を分けて、「観る」から「感覚する」を経由するようにすると「意識する」に入れて、とてもわかり易かったです。


というのが雑談からの流れでの気づきだったのですが、講座はまず「苦と快」というテーマから始まりました。

以前も、苦は自然か、快は自然か、というようなテーマがあって、ぼんやり頭の中には残っていたのですが、少し理解が深まったように思います。

本能的には、苦は悪とされ避けられる、快は良しとされ求められる、という傾向にあるが、一方で快ばかり求めていると怠けてしまう、苦を経なければ向上はない、というような、苦を求め、快を避ける考え方もある。

詰め込み教育かゆとり教育か、みたいなもんで、両方失敗してんじゃん?と。

というところで新たな視点、その「苦・快」は自然と生じたものなのかどうか。

「不自然な苦、人為的な苦」

「不自然な快、人為的な快」

これは環境操作、またその操作された環境に適応するための身体操作から生まれたもの。自然界にはない「快・苦」がある。

例えば正座でなぜ苦が生じるのか。じっとしてるだけなのに。殴られて痛いならわかる、殴って痛いならわかる、なぜ座っているだけで足が痛くなったりするのか。これは自然の苦なのか。

電車の座席に正座で座っていた昔のおばあちゃん。呉服屋の番台で一日中正座で帳簿をつけていたおかみさん。彼らは苦行をしていたのか。

彼らにとってはそれが「快」であった。それが私たちにとって「苦」であるのはなぜか。

古来からの武術にアクセスしようとする時、少なくとも正座が「快」である身体観にシンパシーを持てるかどうかというのは大きな分岐になりそうだ。

結局の所「快と苦」は同時に存在し、移ろうものである、快がなければ苦はなく、苦がなければ快はない。

そう、クヴァンツさんも言ってますね。

「決して切断されない快楽は、われわれの感受性を弱め衰弱させ、快楽をついには快楽でなくさせる。」

というところで正座、合掌での観法に入りました。

あらかじめたてた問いに対して身体に答えを聞く、という感じの流れで、この日の観法も一味違うものになりました。

私も毎日正座、合掌で観法はやってるのですが、やはりもっとじっくり時間をかけてやらなきゃだめだなと思いました。

正座も最初の頃は座った途端に「苦」がやってきてたのですが、1年位やってると、むしろ座った瞬間は気持ちいい感じで、ずっとそうしていたいと思うほどです。が実際は5分もやってると足が痺れ始めて「苦」が生じてきます。

このときもそんな感じで5分くらいで痺れ始めたのですが、不思議なことに観法が深くなっていくとその痺れが完全に消えました。

その後どれくらい経ったかわかりませんがまた「苦」が生じ始め、しかしそれはいつものような痺れではなく、熱くてジンジンした感じ?いつもはむしろ足が冷たくなっていく感じで痺れてくるのですが、ちょっとこれまでにない体感でした。

それでまあある程度の苦は生じるものの、耐えられないほどではなく、傍らに置いておける程度のものでした。

後でうかがったのですが、観法をどこから始めるか、どう進めるかは、決めているときもあれば決めてないときもあり、決めていても始めてみたらそうならないということもあるそうです。この日も最初左肘から入ったのはその時級にそうなったそうで、かなり即興的要素が強いようです。


その後この観法を使った稽古に入るのですが、最初にかなり深く観法をやっておくと、その後の稽古で身体を観るスピードと深さが全然違います。普段の自分ならあと5秒必要だな、とか思いながらやってました。

これ以降の内容はまだオープンにはなっていないようなのですが、間合いについて教わりました。間合いは距離とは違う、距離は同じでも間合いは違うという現象を体験しました。

左右観の違いみたいなことはずっとテーマになってるように思いますが、それがより複雑化して、発展していってるような印象を受けました。

今後も追っていきたいです。


あとは完全に蛇足ですが、着替えてるときに、あ、この人ヒモトレしてるんだな、とか、あれ、これマンサンダルじゃない?とかそういうものが普通になっているこの界隈素敵やなと思いました。

私も今マンサンダル注文中なので楽しみです。

ヒモトレについて https://www.kablabo.com/2016/06/post-236.html

マンサンダルについて https://www.mansandals.net/concept/