羽生善治 | 決断力

【大局観】に引き続いて、羽生善治の【決断力】を読みました。

【大局観】同様、羽生さんに言われちゃったらたまらん!という言葉のオンパレードでした。

特に「はじめに」の、米長邦雄との名人戦初挑戦のくだりには全身総毛立ちました。羽生さんも好きなんですけど、米長邦雄永世棋聖も好きなんですよねー。穏やかで柔和で人当たりがいいんですけどユーモアがあって、生き方も将棋もファンです。

最近とあるテレビ番組で人気の加藤一二三、通称ひふみんとの漫才のような動画があります。羽生さんも出てきますが、もうこの動画最高です。爆笑です。

こんな笑える将棋解説他にない!

以下の動画も凄い。米長さん最後の対局ひふみんとだったんですね。しかも解説が羽生さん。凄いなあ。


さて、印象に残った羽生さんのお言葉を紹介いたします。

「これでいけるだろう」と判断する基準が、私の場合、甘いらしい。

羽生さんは常人には思いもつかないような妙手で大逆転することが多いですが、そのことについての言葉です。

他の人だったら怖くて指せないような手を、ある意味楽観的に指しているんですね。まさに決断力。柔軟性というか。新しいことに対する開かれた価値観というか。

勝負どころではごちゃごちゃ考えるな。単純に、簡単に考えろ!

semre semplice

かくありたいものです。

プロの棋士でも、十手先の局面を想定することはできない。

これは結構驚きました。一つの局面で千手とか二千手とか読むプロ棋士が、十手先も当てられない。これは他の棋士たちと話した中で出た結論なのだそうです。

長い時間考えた手がうまくいくケースは非常に少ない。

他の箇所でも書かれていましたが、直感の7割は正しいのだそうです。もちろんその直感も経験と研究に裏打ちされた大局観によるものなのですが。

ハッキリいって、大山先生は盤面を見ていない。読んでいないのだ。

これほんと凄いです。びっくりです。大山康晴というのは、通算勝数、棋戦優勝歴代第1位という大名人なのですが、その人が、盤面も見ず、手を読まずに指していると言うのはどういうことなのでしょう。常人には理解できませんが、対戦相手をじっと睨みつけ、手が勝手に動いたとこらがいつも良い手、だったそうです。

「そんな馬鹿な」と思われることから創造は生まれる。

普通だったら真っ先に捨てるような選択肢にこそ、新しい手の可能性がある。あり得なさそうなことでも一旦考えて、とりあえずやってみる。他人からの評価を気にして当たり前のことしか出来なくなるというのは、私たちのような職業の者にとっては恐ろしいことです。

ばらばらの知識のピースを連結するのが知恵の働きである。

一見バラバラのように思えることでも、思わぬところで結びついたりするものです。私のやってる一見節操のなさそうな活動も、意外とつながってるんですよ笑

相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえる。

これ、まさにアンサンブルですよね。将棋は勝負の世界ですが、羽生さんは勝ち負けだけでなく、美しい将棋を指そうという気持ちが凄く強いように思います。その意味で相手はその美しい棋譜を共に作り上げる仲間、ということなのだそうです。

一気に深い集中力には到達できない。海には水圧がある。

中国武術では「懸かるを待つ」と言うそうです。状態には自分から入っていくのではなく、その状態が勝手に自分に降りてくるのをただ待つ、という考え方です。

玲瓏

羽生さんが対局前に思い浮かべる言葉なのだそうです。透き通っていて全てが見渡せる状態。しかし羽生さんといえども、対局前は玲瓏でも、一手指した瞬間にどっかいってしまうそうです。その気持ち、よくわかります笑

これは対局を始める前のルーティーンみたいのものだと思いますが、これを知って、バッハが作曲を始める前にかならず”J. J.” (Jesu Juva「イエスよ、助けたまえ」の意)と自筆総譜に書き記したことを連想しました。

一年なり二年なり、ずっと毎日将棋のことだけを考えていると、だんだん頭がおかしくなってくるのがわかる。入り口は見えているけれど、一応、入らないでおこうと思っている。

羽生さん、僕ぁそこに入りましたよ…。

終盤で有効な手は、やわらかい手だ。

もう本当に、音楽のことを言われているようで…。

一局終わると体重が二、三キロ減ってしまう。

ね?だから僕やせてるんです!笑


他にもたくさんあるので、後はコメントを付けずに引用だけさせていただこうと思います。

意表をつかれることに驚いてはいけない。そんなことは日常茶飯事であって、予想どおりに進むことなど皆無といっていい。

 

私は、人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。

 

見た目にはかなり危険でも、読み切っていれば怖くはない。

 

年配の棋士は技術だけでなくハートが強い。ハートで指しているようなところがある。

 

全体を判断する目とは、大局観である。一つの場面で、今はどういう状況で、これから先どうしたらいいのか、そういう状況判断ができる力だ。本質を見抜く力といってもいい。

 

その思考の基盤になるのが、勘、つまり直感力だ。直感力の元になるのは感性である。

 

将棋の指し手の可能性は―中略―十の三十乗ぐらいあり、地球上の空気に含まれる分子の数より多いという。

 

もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。

 

環境が整っていないことは、逆説的にいえば、非常にいい環境だといえる。

 

決断を下さないほうが減点がないから決断を下せる人が生まれてこなくなるのではないか。

 

リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋を残すことはできない。

 

深い集中を得られるかどうかは、私の場合は、将棋を指していて、面白いと感じられるかどうかによる。

 

実は、将棋では、勝ったケースのほとんどは相手のミスによる勝ちである。

 

私は、将棋を指す楽しみの一つは、自分自身の存在を確認できることだと思っている。

 

遊びたいから遊ぶ。何も悪いことではない。


羽生善治 | 決断力

目次

はじめに

第1章 勝機は誰にでもある

第2章 直感の七割は正しい

第3章 勝負に生かす集中力

第4章 「選ぶ」情報、「捨てる」情報

第5章 才能とは、継続できる情熱である

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演奏動画公開中!

Heinrich Schütz “Musikalische Exequien” op. 7 III. Canticum Simeonis / Salicus Kammerchor

Ensemble Salicus : Gregorian chant from “Proprium in ascensione Domini” / “Ordinarium missae I”

――・――・――・――・――

主宰団体Salicus Kammerchorホームページはコチラ

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