大島俊樹|階名唱(いわゆる「移動ド」唱)77のウォームアップ集 

大島俊樹|階名唱(いわゆる「移動ド」唱)77のウォームアップ集 

Salicus Kammerchorのメルマガ、サリクス通信に寄稿していただいている大島俊樹さん(カンタータクラブの先輩)による階名唱の練習曲集。

前から気にはなっていたのですが、記事をお願いしているこの機会にと思って購入しました。

開いてみて、まず解説が非常に充実しています。たっぷり13ページ。

そもそも「固定ド」という概念が存在しなければこのような解説も必要なかっただろうなと思いますが、世の中は残念ながら「固定ド」に支配されていますので笑、これは致し方ないところ。

「固定ド」ってそもそも「固体目薬」って言ってるようなもんで、本来存在しないものなんですよね。しかしなぜかその存在しないものが世の中を支配しているので、それに対する本来のドレミが「移動ド」と呼ばれているのです。つまり「液体目薬」と言ってるようなもんです。

いやあ不可解。

非常にしっかりした解説の後、14ページ目からいよいよ曲集が始まります。

正直私最初にこれを見た時、

「え。なにこれ。あまりにも簡単すぎる。何の意味があるんだこれ」

と思いました。(後にこれは私の個人的な思い込みであるということがわかります)


しかしまあなにはともあれ一回は使ってみようと思いまして、何人かに実際歌ってもらいました。

それも、あまりに簡単すぎると思っていたので最初の方は飛ばして15番からやってもらいました。

そこで私は思い知りました。

「こういうことだったのか」

なにしろ最初の方、長旋法と短旋法の主和音の構成音しか出てこないんですよ。

そんなもん練習する意味があるのかと思っていたのは、私の脳には長旋法と短旋法の主和音の構成音のマップがあるからで、(少なくとも合唱やってるような人で)それが無い人がいるなんていうことは想像もできなかったんです。

もうそりゃあ、すれ違うのもしょうがない。

私なぜだか音楽経験の初歩の段階から階名唱を習っていて、「固定ド」の意味がわからないんですよね。「固定ド」で歌われると気持ち悪くて発狂しそうになります。

でも大島さんはそうじゃない。絶対音感+固定ドを持った状態で、相対音感、つまり階名唱の必要性に気がついて、ドレミのマッピングをやり直したんです。

だからこそ作れた曲集なのです。私では絶対に逆立ちしたって思いつかない。まず生まれ直さないと無理。


ということで私はこれまでの行いを非常に強く恥じまして、大島さんに30冊注文しました。

あ、ちなみにこの本はアマゾンとかに出てないので大島さんに直接注文する必要があります。

なのでまとめ買いして手売りで購入したほうがお得です。1冊ずつだと送料がかかるので。

それで合唱団の皆さんにお配りして、買わない人には貸し出しますということでやってみましたが、ほとんどの方は購入されました。

大勢でやってみて(今度は1番から順に)わかったのは、やはりドレミのマップが無いかあるいは極めて曖昧な方がとても多いということです。

1番から既にできない人はできない。ラミと言いながら普通に減5度歌っちゃったり。

今まで自分がやってきた指導、全部「そういう問題ではない」でカタがついた感。

結構ショックでしたが、とにかくこの曲集やりゃあいいんだということがわかっただけでも本当に良かった。できればもっと早く出会いたかったですが。


あまりネタバレにならないように慎重に書いていきますが、この曲集のコンセプトの素晴らしいところは、長調短調で重要な音から順番にマッピングしていくところです。

長調ならまずドとソの関係を徹底的にインプットする。それができたら今度はドとミ、それができたらドミソの3音。

もうそれは鬼のごとく徹底的にドミソを植え付ける。なにしろこの3音が中心となって、その他の音はこの3つの音との関係性でマッピングしていく。

これはちょうど北と東がわかって初めて北東がわかり、北東がわかって初めて北北東がわかるというのに似ています。

よくある教本ではまず二度の音程を取りましょう「ドレミファソファミレド」

二度ができたら三度をとりましょう。「ドレミソラファミレド」

みたいのが多いんですけど、これは北から北北東を向きましょう。それができたら北東を向きましょうって言ってるようなもんで、北と東がわからないのになんか適当に右を向く、何回かやるうちにズレがひどくなってたアッチャーみたいなことなんですよね。

調性音楽においては、軸になる音というのは隣り合っていないんですよね。

この軸となる音をマッピングしていくという作業をいろんな高さでやる。

これも普通のソルフェージュ教材と違うところかもしれません。

普通はやっぱり調号なしから始めて、次はシャープ一個、フラット一個ってな具合で調号を増やしていくものが多いと思います。

どの高さであってもドとソの間隔は変わらないということを刷り込んでいくのですね。

なのでこれはこれから楽譜を読むことを始めようと思う人が取り組むだけではなく、音楽を専門的にやっている人でも、自分が持っている「固定ド」を破壊することが出来ると思います。

実はこれサリクスでもちょっとやってみたのですが、1番が難しいねという声もありました。ちなみに1番というのは長旋法と短旋法のそれぞれ主音と属音だけでできています。プロがそれを難しいと感じるのです。


ですので、プロアマ問わず、自分が楽譜が読めると思っている人もそうでない人も、西洋音楽をやる人はもう全員やったらいいと思います。

あるいはそうでなくても、ドレミのマップを持っていると、ドレミでできていない曲であってもドレミの曲とどう違うのかがわかります。

ものさしを一本持っていると色んなものが測れるんです。

そういう意味でもドレミは便利です。

一本持っておいて損のないものさしです。

楽譜が読めるとか読めないかいうことでさえないです。楽譜読む必要がない人もドレミの感覚は持っておいて損はないです。

この曲集のいいところは、ただこの順番で、なんも考えずにひたすらドリルのようにこなしてくことで勝手にドレミが頭に入ってくるというところで、これほど優れた教材があれば、指導者は必要ないのではないかと思うほどです。

多分厳密に言うとそれは言いすぎなんでしょうけど、まあそのくらい優れた教材であるということは間違いありません。自習に最適です。ソルフェージュのレッスン行くの大変だなあとか、それほどでもないなあとか、今更ソルフェージュ習うの恥ずかしいなとかそういう人にもうってつけ!

私のところにもあと数冊残ってますので、私に会う機会のある方はご連絡ください。取り置いておきます。

羽生善治 | 決断力

羽生善治 | 決断力

【大局観】に引き続いて、羽生善治の【決断力】を読みました。

【大局観】同様、羽生さんに言われちゃったらたまらん!という言葉のオンパレードでした。

特に「はじめに」の、米長邦雄との名人戦初挑戦のくだりには全身総毛立ちました。羽生さんも好きなんですけど、米長邦雄永世棋聖も好きなんですよねー。穏やかで柔和で人当たりがいいんですけどユーモアがあって、生き方も将棋もファンです。

最近とあるテレビ番組で人気の加藤一二三、通称ひふみんとの漫才のような動画があります。羽生さんも出てきますが、もうこの動画最高です。爆笑です。

こんな笑える将棋解説他にない!

以下の動画も凄い。米長さん最後の対局ひふみんとだったんですね。しかも解説が羽生さん。凄いなあ。


さて、印象に残った羽生さんのお言葉を紹介いたします。

「これでいけるだろう」と判断する基準が、私の場合、甘いらしい。

羽生さんは常人には思いもつかないような妙手で大逆転することが多いですが、そのことについての言葉です。

他の人だったら怖くて指せないような手を、ある意味楽観的に指しているんですね。まさに決断力。柔軟性というか。新しいことに対する開かれた価値観というか。

勝負どころではごちゃごちゃ考えるな。単純に、簡単に考えろ!

semre semplice

かくありたいものです。

プロの棋士でも、十手先の局面を想定することはできない。

これは結構驚きました。一つの局面で千手とか二千手とか読むプロ棋士が、十手先も当てられない。これは他の棋士たちと話した中で出た結論なのだそうです。

長い時間考えた手がうまくいくケースは非常に少ない。

他の箇所でも書かれていましたが、直感の7割は正しいのだそうです。もちろんその直感も経験と研究に裏打ちされた大局観によるものなのですが。

ハッキリいって、大山先生は盤面を見ていない。読んでいないのだ。

これほんと凄いです。びっくりです。大山康晴というのは、通算勝数、棋戦優勝歴代第1位という大名人なのですが、その人が、盤面も見ず、手を読まずに指していると言うのはどういうことなのでしょう。常人には理解できませんが、対戦相手をじっと睨みつけ、手が勝手に動いたとこらがいつも良い手、だったそうです。

「そんな馬鹿な」と思われることから創造は生まれる。

普通だったら真っ先に捨てるような選択肢にこそ、新しい手の可能性がある。あり得なさそうなことでも一旦考えて、とりあえずやってみる。他人からの評価を気にして当たり前のことしか出来なくなるというのは、私たちのような職業の者にとっては恐ろしいことです。

ばらばらの知識のピースを連結するのが知恵の働きである。

一見バラバラのように思えることでも、思わぬところで結びついたりするものです。私のやってる一見節操のなさそうな活動も、意外とつながってるんですよ笑

相手は敵であると同時に作品の共同制作者であり、自分の個性を引き出してくれる人ともいえる。

これ、まさにアンサンブルですよね。将棋は勝負の世界ですが、羽生さんは勝ち負けだけでなく、美しい将棋を指そうという気持ちが凄く強いように思います。その意味で相手はその美しい棋譜を共に作り上げる仲間、ということなのだそうです。

一気に深い集中力には到達できない。海には水圧がある。

中国武術では「懸かるを待つ」と言うそうです。状態には自分から入っていくのではなく、その状態が勝手に自分に降りてくるのをただ待つ、という考え方です。

玲瓏

羽生さんが対局前に思い浮かべる言葉なのだそうです。透き通っていて全てが見渡せる状態。しかし羽生さんといえども、対局前は玲瓏でも、一手指した瞬間にどっかいってしまうそうです。その気持ち、よくわかります笑

これは対局を始める前のルーティーンみたいのものだと思いますが、これを知って、バッハが作曲を始める前にかならず”J. J.” (Jesu Juva「イエスよ、助けたまえ」の意)と自筆総譜に書き記したことを連想しました。

一年なり二年なり、ずっと毎日将棋のことだけを考えていると、だんだん頭がおかしくなってくるのがわかる。入り口は見えているけれど、一応、入らないでおこうと思っている。

羽生さん、僕ぁそこに入りましたよ…。

終盤で有効な手は、やわらかい手だ。

もう本当に、音楽のことを言われているようで…。

一局終わると体重が二、三キロ減ってしまう。

ね?だから僕やせてるんです!笑


他にもたくさんあるので、後はコメントを付けずに引用だけさせていただこうと思います。

意表をつかれることに驚いてはいけない。そんなことは日常茶飯事であって、予想どおりに進むことなど皆無といっていい。

 

私は、人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。

 

見た目にはかなり危険でも、読み切っていれば怖くはない。

 

年配の棋士は技術だけでなくハートが強い。ハートで指しているようなところがある。

 

全体を判断する目とは、大局観である。一つの場面で、今はどういう状況で、これから先どうしたらいいのか、そういう状況判断ができる力だ。本質を見抜く力といってもいい。

 

その思考の基盤になるのが、勘、つまり直感力だ。直感力の元になるのは感性である。

 

将棋の指し手の可能性は―中略―十の三十乗ぐらいあり、地球上の空気に含まれる分子の数より多いという。

 

もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。

 

環境が整っていないことは、逆説的にいえば、非常にいい環境だといえる。

 

決断を下さないほうが減点がないから決断を下せる人が生まれてこなくなるのではないか。

 

リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋を残すことはできない。

 

深い集中を得られるかどうかは、私の場合は、将棋を指していて、面白いと感じられるかどうかによる。

 

実は、将棋では、勝ったケースのほとんどは相手のミスによる勝ちである。

 

私は、将棋を指す楽しみの一つは、自分自身の存在を確認できることだと思っている。

 

遊びたいから遊ぶ。何も悪いことではない。


羽生善治 | 決断力

目次

はじめに

第1章 勝機は誰にでもある

第2章 直感の七割は正しい

第3章 勝負に生かす集中力

第4章 「選ぶ」情報、「捨てる」情報

第5章 才能とは、継続できる情熱である

――・――・――・――・――

演奏動画公開中!

Heinrich Schütz “Musikalische Exequien” op. 7 III. Canticum Simeonis / Salicus Kammerchor

Ensemble Salicus : Gregorian chant from “Proprium in ascensione Domini” / “Ordinarium missae I”

――・――・――・――・――

主宰団体Salicus Kammerchorホームページはコチラ

――・――・――・――・――

櫻井元希へのお仕事のご依頼、チケットのお求め等は以下のフォームよりお気軽にお問い合わせください。

羽生善治 | 大局観

羽生善治 | 大局観

気まぐれ書評です。

私は幼稚園の頃に、サッカーより先に将棋を覚え、小学校の一時期は毎週将棋教室に通っていました。

羽生さんは小学2年生から始めたそうなので、羽生さんより早いゾ!

その頃までは将棋がとても好きだったのですが、いつからか興味が薄れて多分中学生の頃から今までほとんど将棋から離れていました。

なぜそうなったかは覚えてないのですが。

それがなぜか最近将棋にまたハマりだして、YouTubeで羽生善治チャンネルをお気に入り登録して廃人のように見ふけったり、スマホのアプリでコンピュータ相手にもう多分200局以上は打ってます。

あぁ、それにしても人間と将棋が指したい。

そういう流れで羽生善治の「大局観」という新書を読みました。


大局観とは、争点の箇所だけでなく盤面全体を見渡し、文字通り大局にたって判断するということなのですが、これを私は剣道の「遠山の目付け」同様、音楽に応用しています。

羽生さんは大局観を、「読み」と並ぶ能力として、対局において重視しているそうです。

読む力、つまりこう指したら相手がこう指して、そう来たらこうやって、という様々なパターンについて先を読むという力は若い人の方が上回っているそうです。

しかし年齢を重ね、経験を積んでいくと、大局観が培われ、若い棋士とも同等に渡り合える。だから羽生さんは、今の自分でも20代の時の自分に負けない、と思えるのだそうです。

将棋の対局をしている間、棋士は黙って盤面に向き合い、黙って一手一手を指します。

その姿をいつも、何考えてんだろーなーとか思ってたので、饒舌に語る羽生さんの著書はすごく新鮮でした。

そして、どんな当たり前の事でも、羽生善治が言うと全然違って聞こえる、というか説得力エグいです。

リスクを取らないことが最大のリスクだと私は思っている。なぜなら、今日勝つ確率が最も高い戦法は、三年もたてば完全に時代遅れになっているからだ。

とか、

棋譜検索で得た情報は過去から現在までのものを表示しているだけで、それがどんなに膨大な量であっても、未来については何も書かれていない。

とか、

400局負けたということは、私には少なくとも400以上の改善点があることになる

とか、

得ることよりも捨てることの方が何倍も難しい

とか、

なかでも注意すべきなのは、複数の選択肢をシミュレーションして、どちらもうまくいきそうにない場合だ。こんな時には、最後に思いついた別の選択肢が、やけにうまくいきそうに見えることがある。

とか、

将棋に限らず日々の生活のなかでも、一つの選択肢によって極端にプラスになるわけでもないし、取り返しのつかないマイナスになるわけでもない。

とか、

確率で大部分について解る。しかし、すべてではない。

とか、

最近の将棋の傾向(昔から将棋をやっている人にとっては、筋悪とか、美しくない、と感じる)を

私は、「モダンアートのようだ」と表現している。

とか、

私はこれまで、何と闘うという目標を立ててやってきていない。

信じていただけないと思うが、常に無計画、他力志向である。

などなど。

どんなに天才に見える人であっても、結局は一手一手、凡人同様に全力を傾け、何度となく負け、地道に、改善点に一つ一つ取り組んでいるんだと、思いました。


目次

第一章 大局観

1 検証と反省

2 感情のコントロールはどこまで必要か

3 リスクを取らないことは最大のリスクである。

4 ミスについて

5 挑戦する勇気

第二章 練習と集中力

1 集中力とは何か

2 逆境を楽しむこと

3 毎日の練習がもたらす効果

4 教えることについて

5 繰り返しの大切さ

第三章 負けること

1 負け方について

2 記憶とは何か

3 検索について

4 知識とは

5 直感について

6 確率について

7 今にわかる

第四章 運・不運の捉え方

1 運について

2 ゲンを担ぐか

3 スターの資質

4 所有について

第五章 理論・セオリー・感情

1 勝利の前進

2 将棋とチェスの比較

3 コンピュータと将棋

4 逆転について

5 ブラック・スワン

6 格言から学ぶこと

7 世代について

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演奏動画公開中!

Heinrich Schütz “Musikalische Exequien” op. 7 III. Canticum Simeonis / Salicus Kammerchor

Ensemble Salicus : Gregorian chant from “Proprium in ascensione Domini” / “Ordinarium missae I”

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