古楽的見地から分析するトゥヴァ民謡

昨日お風呂でぼーっと考えていたことを書きます。

タイトルほど大げさなことではありません。

今コエダイr合唱団でХөөкүй ноянという多分トゥヴァ民謡を練習しています。

音源は以下から聞くことができます。

https://mp3mn.com/?song=02+%D1%85%D0%BE%D0%BE%D0%BA%D1%83%D0%B9+%D0%BD%D0%BE%D1%8F%D0%BD

この曲自体は去年からやってるのですが、この音源聴いたのは先週の練習会ででした。

それでこの曲のありさまを初めて知ったのですが、ちょっと思ってたのと違ったんですね。

そもそもこの曲アカペラでユニゾンで歌ってるものなんですね。勝手にイギルとかドシュプルール楽器付きだと思ってました。

それでこの曲3番までと4番からの様子が全然違う。それはテキストが3番まではなんだか牧歌的なのほほんとしたテキストなのに、4番から急に政治的な内容になって、二重支配辛い的な内容になってます。

何か事情があって4番5番の歌詞が付け加えられたんでしょうか。初めから子の構成だったとは私には思えません。

それでこの内容に合わせて、最初はどちらかというと息もれ系の柔らかヴォイスから、3番の終わりのところのオーハヤン、エーハヤンという掛け声みたいとこから喉詰め発声になるんですね。

でも実は声の音色は徐々に変わっていっていて、3番の頭ちょっと過ぎたあたりから、(多分)3人のうちの真ん中の1人が喉詰めで歌っています。

それでオーハヤン、エーハヤンのところで左の人が喉詰めになって、4番の頭からみんな喉詰めになっています。

多分打合せでは3番の頭から一人喉詰めになる予定だったんでしょう。途中で目配せがあったのか、あわてて喉詰めに変えてるっぽいです。

最後、5番ですが、真ん中の人ひょっとして歌ってないかしら?最後のところ、左の人はどういうわけか慌てて音をブチって切って歌いやめてしまうんですが(最後のnの子音も言ってない)、そのとき残っている声は右の人だけの気がする。

ちょっと後でモニター用ヘッドフォンで確かめてみようかな。

この3人が時々違う歌詞歌ったりしてるのは単に間違えたんでしょうか。多分そうだと思います。

それでもこのテイクをCDにしちゃうっていうのがまたトゥヴァっぽいというかなんというか。

しかしながら旋律に関しては大体見解が一致しているようです。

しかし大きく違うところがあります。

ラーラードレミドレーレミレミド
ラードレミドミーミソミレド
ミーミソミーレドレーレミレミド
ラードレミドレーレミレミド

左の人はほぼ一貫してこんな感じで歌っています。

しかし右の人はほぼこんな感じです。

ラーラードレミドレーレミレード
ラードレミドミーミソミレド
ミーミソミーレドレーレミレード
ラードレミドレーレミレード

1・3・4行目の終わり方が右の人の方がシンプルです。

他の箇所も左の人の方が若干装飾的だったりしているので、この終わり方も装飾の一つなのかもしれないし、まあちょっとした旋律のバリエーションなのでしょう。

それでいままでコエダイでは右の人のシンプルなやり方で歌っていたのですが、左の人の終わり方もいいなあと思いました。

レからドに直接行くのではなく、ミに寄り道してからドに行く感じ。

あれ。これなんかあれに似てるな。あれあれ。

ランディーニ終止

はい。やっと古楽ターム出てきました。

ランディーニ終止とは導音のティから直接ドに行くのではなく、ラに寄り道してからドに行く終止の方法です。ドシーラドーみたいな感じです。

普通
ランディーニ終止

Хөөкүй ноянの場合は上から終止して、ランディーニ終止の場合は下から終止しますが、1個隣の音に寄り道するという点では同じです。

右の人
左の人

もう一つ。

これ、リクエッシェンスじゃね?っていう気づきもありまして。

くだんの終止の箇所、最初の歌詞はカンドゥルでありまして、左の人はミに寄り道する際そのnの子音だけミに寄り道してるんです。

これはグレゴリオ聖歌のネウマの一つ、エピフォヌスに他ならないではあーりませんか。

これは上昇2音のネウマ「ペス」の縮小系リクエッシェンスとも言われ、ここの箇所の場合、カ(レ)ア(ミ)ン(ミ)ドゥル(ド)となっていればペスなのですが、ミの音はンだけです。リクエッシェンスではこのように子音だけに一つの音が与えられることがあります。

日本人にとっては「ん」に音があてられることもあるので余計この例外的処置が説明しづらいのですけど、西洋の歌の場合、音があてられるのは母音なんです。

子音だけに音が与えられるってことがほぼなくて、グレゴリオ聖歌にはそれが普通にあるのが面白いところなのです。

しかもそれをわざわざ他のネウマと書き分けて記す神経の細かさよってところが現代人からするとため息ものなのです。

てことで、この左の人は反転(?)ランディーニ終止をエピフォヌスでやっているのだなあと、風呂に入りながら考えていました。

おしまい。

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