光岡英稔 韓氏意拳講座|7回目

またまた光岡先生の講座に参加してきました。

今回は韓氏意拳の講座です。

午前中仕事だったので、午後・夕方の2コマを受講しました。

このレポートもBUGAKUの方と合わせて16回目になります。なんだかもういよいよ内容がコアになっていって、いっそう文字で表すだけではなにがなんだかわからない感じになっていますが、自分の記憶の定着のためと、講座を経ての自分の気づきのメモをしていこうと思います。

ほんと光岡先生の講座は経験してみないとわからないことばかりなので、皆様ぜひこんなブログを読んでないで講座の申込みをしてください笑。

『BUGAKU』講習会のHP
http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html

韓氏意拳光岡教室のHP
https://hsyqjapan.dreama.jp/40/87/


【これまでのレポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5


四足歩行

韓氏意拳の講座と言いながら、光岡先生の講座では韓氏意拳の体系に入る以前の基礎についてをかなりしっかりやります。

站樁も形体訓練も全くやらないこともザラです。

今回の午後の講座でも、中国文化圏や、韓氏意拳の基本的な考え方や用語などは登場しますが、実際実技でやるのは「四足で歩く、二足で立つ」ということです。

二足で立てなければ武術もクソもないし、二足で立つための前提として四足の身体観を稽古する、という感じです。

今回あらためて感じたのは、「意識して〜する」ということがいかに我々の脳味噌に「良いこと」として刷り込まれているかということで、私が参加した初級講座のほとんどで、受講生のだれかしらが「〜を意識してやるんですね」などと発言します。

そのたびに光岡先生は、「私は講座の中で『意識して〜する』ということを一度も言ったことがありません」とおっしゃるのですが、それを聞いたあとでさえ「いし・・・じゃなくて、えー観る」と口から勝手に出てくる受講生がたくさんいます。

韓氏意拳では「不用力・不費脳」という考え方があり、これは力を用いない、脳を費やさない、ということなのですが、「意識して〜する」というのは脳を費やしていることになります。

脳は身体の1%という言い方もされますが、脳は身体にとってそんなに大きな働きはできないし、できると錯覚してしまうことが身体全体の機能を阻害するんですね。

しかしこれは本当に難しい。見た目ではわからない。けど観た目ではわかります。

韓氏意拳の教練の内田先生に「櫻井さんいつものこの辺にいるんですけど」と胸のあたりを示されたのですが、たしかに私デフォルトの状態だとそのあたりにいて、そこから降りていくのに努力感がいります。

それでもまだマシになってきた方で、10年前はどこにもいなかったです。私が。私の身体に。

脳にいればまだ良いほうなんでしょうけど、脳にいるというよりは脳の中でイメージしたバーチャルな私しか存在してなかったですね。もう、身体は死んだも同然でした。実際その頃は死のう死のうと努力していましたね。

希死念慮というやつは、身体に自分がいないというところから始まるんじゃないかな。と今ふと思いましたが、あながち妄想でもなさそうだな。

というわけで、観る人が観ればどこを観てるかはわかるのですが、見た目ではわかりません。

なので本当に観れてるかどうかは、試し稽古でチェックすることになります。

「意識すると身体はバラバラになる」「観るとまとまる」これは本人にとっては区別がつきにくいがために、一生懸命逆効果になることを稽古している可能性すらあります。

だから一人稽古の中にも試し稽古を取り入れられないかと思うのですが、なかなか難しいですね。

今のところ、たまに妻に「ちょっとここ押して」とか頼んでます。

四足で今回とても印象深かったのは、まず世話人の某I毛さんの同足歩行がめちゃめちゃ軽やかだったということで、もう歩行というか走行でしたね。見事でした。

私も家が狭いからなあとか言い訳してないで公園行って稽古しよう。と思いまして翌日公演で裸足に素手でやってみたのですが、公演の土って海から持ってきたんですかね?貝殻とか混じったかなり鋭利な砂利で、めっちゃ痛かったです笑。けど室内でやってるのとも違う身体観が得られたので、懲りずに続けたいと思います。

もう一つ印象深かったのは、前足の親指問題です。四足の哺乳類って歩くとき親指が地面に着いてないんですよね。手首のあたりにある。だから我々が四足で歩くときも親指を少し浮かせるようにすると歩きやすい。

っていうのはやってみればわかります。全然違います。でも四足で歩いたことのない人には絶対わからないです。

で、私が思ったのは、私らはこれを光岡先生から教わるからわかる。しかし光岡先生は誰から教わったわけではなく、自分の身体を通してそれを発見する。発見というか、それが当たり前、当然このほうがやりやすいじゃんねえって身体が知ってる、みたいな感じなんですよね。

この感性と観性、これがもう決定的に私たちとは違う。

私たちは教わったことに縛られて自分で何かを見つけ出すという感性や観性を失っている。教わったことの中で稽古することしか考えてない。

でももともとこの能力は備わっているはずなんですよね。蓋をしているだけで。何かふとこうな気がする、とか思っても、根拠のないことだと思ってすぐ捨ててしまう。感覚的なこと、野生のカンみたいなものを、頼りないものと思ってしまう。そういう思考構造になってしまっている。

それで自ら感性や観性を削ぎ落としていって、それがもっとひどくなるとマジで感覚すらなくなっていく。(味や匂いがしなくなったりね笑)

私も剣道部やってたころ痛みを無視する技を身につけてしまって、そのうち心の痛みも無視するようになって、一番ひどいときは、アイロンが腕に当たってるのに「うん、熱いね、で?」て脳で考えてる間に大火傷するという有様でした。そのくらい身体がバラバラだった。

今は流石にそこまでではないけど、そう、なんていうか、反射的に身体が動くかどうかってほんと重要な目安になると思います。身体が何かを感じて動き出すまでに思考や意識が介入しない状態というか。

感覚的なこととか、なんかそんな気がする、というのを捨てないで、掘り下げていけるかどうか、そういう稽古も必要なんだろうなと思います。


站樁は一つじゃない

夕方のコマはもうそれはそれは衝撃的な内容でした。

意拳の系譜、王向斉、韓星橋、韓星垣、韓競辰の4人には、4通りの站樁がある。

なんですとおお。でしたね私にとっては。

でどう違うかというところを今回は王向斉と韓競辰の站樁の違いということで学んでいきました。

ここからの展開がもう凄すぎて、我々の四足の先祖と二足の先輩の身体観をインストールせよって感じなのですが、あまりにもハイレベルすぎて文章にならないので、諦めます笑

二足の先輩って何かっていうと恐竜なんですよねえ。

「経験」というのは個としての経験、種としての経験、生命としての経験があって、我々脳が覚えているようなことは個としての経験のそのまたほんの一部なのである。

というのは理解していたのですが、まさか直接の祖先でない恐竜の経験までは思考が至ってなかったっす。ただ生命としての経験という意味では恐竜の経験も我々は持っていると。

この話は某I毛さんが、王向斉の身体観で韓競辰の站樁を稽古していたところ体調が悪くなった、というところから発展したそうなのですが、実は私も黙ってましたがこの1・2ヶ月同じことをしておりまして、なんか最近仙骨痛いなあとか思ってたんですよね・・・・笑

それでこの講座を受けてから毎朝の站樁のやり方を変えたら、3日くらいで跡形もなく痛みが消えました笑

いやしかしこれは良いことなんです。間違ったものには間違った結果があるということが確かめられたわけで、間違うことができるというというのも実力なのです( •̀∀•́ ) ✧ドヤ━━

站樁が意味を為していないと、間違った結果も起こらないわけですからね。

I毛さんがどうもおかしいということに気づいて、光岡先生にお話されたのでしょうけど、それが稽古に結びついたものであると気づいた観性が素晴らしいと思います。私はなんか仙骨痛いなーと思ってましたが、それと稽古は全く結びついてなかったので。

おかしいことにおかしいと気づけるのもまた観性ですよね。

それが、これとこれの食い合わせが悪いからやと気づけるのもまた凄いですが。

もうとにかく我々の社会は良くも悪くも刺激が多すぎ強すぎで、観性や感性に蓋をしていないと息もできないんす。

快も不快も感じにくくしていないと爆発してしまう。そういえば鈍感力という本があったなあ昔。

鈍くなることは適応なんですよね。そうしないとしんどくって生きていけない。

けどそれが何を生んできたのか、そろそろ学んでもいい頃では、と思います。


ということで今回は特に、講座のレポートというよりは、そこからこんなことを考えてましたよという愚にもつかない私の感想になってしまいましたが、そもそも講座で起きていることを文字にするのは不可能だし、下手に説明しても絶対に誤解される自信があるので、このくらいで勘弁していただければと思います。

とにかく今回の講座も非常に重要な気づきがたくさんあって、あたしゃあ鼻血が出そうなほど興奮してるよってことが伝わったらなと思います。


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