先日広島に帰りまして、15年ぶりに広大の同級生に会いました。
長谷川諒という音楽教育学ユーチュバーです。
対談動画を撮りました。
なんとノーカット完全版ですんごい長いので、通勤通学のお供にラジオ感覚で見ていただければと思います。
動画で1時間弱喋って、その後も2時間位喋ってて、別にそれも撮っとけばよかったんじゃないかと思ったのですが、そこで喋ったことや、その後考えたことなんかを書いてみたいと思います。
古楽
この動画の中で、「文化としてのクラシック音楽」「ジャンルとしてのクラシック音楽」と言っているのは、下記記事で書いているところの「西洋クラシック音楽」「西洋伝統音楽」にあたろうかと思います。
1年前に書いた記事ですが、われながらよくまとまった記事だと思います。
動画では古楽についても「思想としての古楽」と「ジャンルとしての古楽」という言い方で分けてますが、後者については単に「バロック以前の西洋音楽」と私は意図していて、ちょっと諒ちんの解釈とはすれ違っています。
前者の「思想としての古楽」は下記ちょっと動画を切り抜いてみましたが、ここでも言っている通り、何ら特別なことをしてるわけではなく、ただ音楽してるだけです。

https://youtube.com/clip/UgkxTjspHKpRFDiIc2WD6molzK8MqR6SL4TH?si=l-aS-kN8TxmeKqxj
じゃあそうじゃない古楽は一体どうなってしまったかと言うと、音楽にに近づこうとすることをやめて、思考停止で、古楽ってこんなもんでしょ?これでいいんでしょ?これが気持ちいいんでしょ?ってなっちゃってるんですよね。
これはまさに諒ちんの本の中で出てきている他律的態度なんです。自分が「これが良い」って思ってるんじゃなくて、既存の価値観によっかかってるだけなんですよね。
これを古楽のクラシック化と呼んでます。(念の為に言いますと、ここで言うクラシックは「文化としてのクラシック」です)
この話の流れですのでもう伝わってるかと思いますが、私は「文化としてのクラシック音楽」も「クラシック化した古楽」も、音楽ではないと言っています。
上の「西洋伝統音楽」と「西洋クラシック音楽」と「古楽」では極限までトゲを取り除いてお話していて凄いなあと思うのですが、オブラートに包まず言いますと、結局言いたいことはそういうことです。
焦がれ求め問い続けることが音楽だとするならば。
60年前にわざわざ音楽のことを「古楽」と言わなければならなかったのか。それは「新即物主義の音楽」に対して、それは音楽じゃねえって言いたかったんだけど、言えなかったから、わざわざ新しい概念を生み出さなければならなかったんだと思います。
そういう意味で、思想としての古楽は、ジャンルの垣根を超えて、あらゆる音楽に適用可能です。
いや、ほんと当たり前のことなんですけどね、普通に、音楽やろうぜっていう、非常にレベルの低い話で。他のジャンルの人から見たら、ほんと馬鹿馬鹿しいくらいに。それくらい古楽の立場から見れば、それ以前の西洋クラシック音楽は迷走していた。
そんなわけで最近はジャンルとしての古楽(バロック以前の西洋音楽)を超え、古典派やロマン派の音楽にも古楽のムーブメントがスライドしています。
わざわざそういう時、「古楽アプローチによる」とかっていう宣伝文句がついたりしますが、これは「実力派シンガー」みたいな謎文句です。(実力のないシンガーはシンガーですか?)
普通に音楽するぜ俺たちって言ってるようなもんです。
そんな当たり前のことを言わなければならない状況が未だにあるということでもあります。
それでまあジャンルとしての古楽やるのに、ヘクサコルド使おうぜって私が言ってるのは、書道やるのに筆使おうぜって言ってるようなもんなので、さらに当たり前というか、さらに低レベルのことですので、ほんと難しいことなにもないのでただ、ヘクサコルドを手にとって、それでまず一本線を描いてください。
それもまた、このあと書いている洗脳がとけないことには難しいのかもしれません。
https://genkisakurai.base.shop/items/80946072
教育
動画後半で教育の話になってまして、私が教育の世界から足を洗ったキッカケの一つについてお話ししています。
「教育は正しいことを教え、洗脳は間違ったことを教える」
これを聞いて私は「へえ、教育って洗脳だったんだ、やーめた」ってなっちゃったわけなんですが、これしかし確かに定義としては全然間違ってないと思います。
教育ってそうならざるを得ない。
ただ問題はその教育なり洗脳の目的で、宗教団体の場合はそれがお布施を集めるためで、「公教育」においては税金を集めるためなんですね。
端的に「公教育」の目的って「優良な納税者を大量生産すること」で、だから教育が公である必要があるんですね。
諒ちんの本「音楽科教育はなぜ存在しなければならないか」は、「公教育における」という条件付けのもとだと解釈してますが、それならまず「公教育はなぜ存在しなければならないか」を問わないといかんのやろうと思います。
だから次回作でぜひ書いてねということを推しておきました。
ちなみに私自身は公教育が存在しなければならない理由は我々の側にはないと思ってます。
なので公教育の中に音楽科がある必要はないと思うけど、教育の中に音楽は必要だと思ってます。それは我々のようなマイノリティに対して、悪いのはあんたじゃないよってことを教えてくれるからです。
諒ちんは音楽科の存在意義について、「非他律的態度の醸成」と言っていて、それ自体は賛成なのだけど、公教育の目的はむしろ逆なのですよね。
「これが答えだ。何も疑問に思うな。義務を果たせ」
なので現状の音楽科教育は公教育の目的に適ってるんですよね。
「ベートーヴェンは偉いのだ。お前がどう思おうと関係ない」
それを盲目的に実践できる先生もいるだろうけど、そうでない音楽科の先生が、現状のシステムの中でなんとか自分がやってることに意味を見出せるように、というのが諒ちんの意図の一つなのだろうし、それはそれで意味のあることなのだろうと思うけど、私からすると、それって大きな船の中で進行方向の反対側に匍匐前進するような虚しさを感じてしまう。(個人の感想です)
しかしだからといって、その大きな船の行先をどこに変更したらいいのかは私もわからないし、多分まだ誰もわかってない。
それは、社会の仕組みそのもの、自由主義、資本主義、民主主義を変えないといけないから。
この3本立ての洗脳のもとでは、公教育は今の目的を変更することはない。公教育はこの3本立てのために必要不可欠だから。
トランプやイーロンマスクや立花孝志や斎藤元彦や石丸伸二を生み出したのはこの3本立てだということを忘れてはならないと思う。
じゃあ共産主義なのか、社会主義なのか、と言われそうですが多分それらでもない。人間はまだ社会の在り方について答えを出せていないし、多分今後も答えは出ないんだと思う。
それは音楽と同じではなかろうか。
辿りつかない音楽に少しでも近づこうとする営みそのものことを音楽と呼ぶように、辿りつかない「理想の社会」に少しでも近づこうとする営みそのもののことを「政治」というのではなかろうか。
だから問うことを辞めたらだめ何だと思います。たとえ答えに辿り着かないということがわかっていたとしても。
「私たちを突き動かすのは、疑問よ」ってトリニティも言ってるじゃない。
久しぶりにマトリックス観たいなあ。
洗脳というやつが、いかに解き難いものかというのも、マトリックスは教えてくれてますねえ。
ということで最後にマトリックスのエンディングを置いておきます。
Wake up.