今年度から武学の東南アジア武術とハワイアン八卦掌の講座の世話人を拝命いたしまして、4月5月と2回講習会を終えました。
果たしてこの2つの講座は、「空手」「柔術」「剣術」などに比べて中身が一見してわかりにくいということで、私の実力の範囲で、この2つが一体どんな講座なのか、言葉にしてみたいと思います。

東南アジア武術
東南アジアというとインドネシアやフィリピンやマレーシアやラオスやベトナムやタイやカンボジアやミャンマーなど国だけ並べてもいっぱいあって、広さにしても中国大陸全体よりもデカい、というような話が先日の講座でもありました。
そこでは様々な言語が話されていて、とても一括りできないような多様な文化がある。にもかかわらず東南アジア武術と括っているのは、それでもその中に共通するナニカがあるからで、そのナニカを教えることができるのは多分世界広しといっても光岡英稔だけなのではないでしょうか。
そもそも光岡先生って上にも書いた「空手」「柔術」「剣術」「中国武術」と「東南アジア武術」「ハワイアン八卦掌」を全部教えてて、かつ単発講座では「呪術」とか「武運」とか「天狗」とか、さらに別枠で「武学の基礎」を教えていて、もうほんとに異常。これだけ横断的に様々な武術を教えられる人っていないですよね。普通。
そしてそれこそが光岡英稔の光岡英稔たる所以だと思います。
これだけ多岐にわたる世界の武術を一人の人間が教えているという、その縮小版が「東南アジア武術」の一講座の中で味わえる、とも言えるのではないでしょうか。
様々な武術を通して、それらがまるで別々でありながら、それでもその中にあるより普遍的な人間とは何か、を知っていくのが武学の全体像だとすれば、東南アジア武術はインドネシアやフィリピンやタイやマレーシアやラオスのそれぞれの文化が、多様でありながらそれでもその中にある「東南アジア武術」の核みたいなところを伝えようとされているのではないかと思います。
そして、その中でも中心に扱っているいるのがラオスの名もない武術、ハワイに渡ってただ「flower」とだけ呼ばれていた謎の武術には、武術の原風景があると言われます。
原風景ってなんぞや。
無文字文化圏であるラオスの、無文字文化圏ならではの武術、型のひとつひとつに名前がついて、文字化されて伝承される日本や中国の武術にはない原初性、カオスがカオスのまま残され伝わった武術の真実に対する親密さ、が特徴なのではないかと思います。
何か例えば音楽を聴いたとして、その時に感じた得体のしれないナニカを、言葉にした途端に「そうなんだけどそれじゃない」って思うことありますよね。言葉にするとそれじゃなくなってしまう。
それを言葉にしないで「それ」そのまま伝えようとしてるんだと思います。
かといって言葉にするのがアカンというわけではなく、それ(文字と真実は違うということ)を知ってないとあかんのだと思います。いや、みんな多分知ってはいるんだけど、でも忘れてますよね。
「楽譜と音楽は違う」と口では言いながら楽譜通りに音を出すことしかできないクラシック音楽家みたいなもので。
「文字」と「楽譜」ってほんとよく似てますよね。
それによって表そうとしたナニカを、いとも簡単に形骸化させてしまう。
そうならないためにはよほどの四性(知性・感性・観性・悟性)が求められるのだと思います。
こういうことを考えていると、こうして言葉にして文字にすること自体に躊躇いが生じてしまうような気がしますが、光岡先生は「言葉になることを言葉にしてもしょうもないが、言葉にならないことをそれでも言葉にすることには意味がある」とおっしゃいます。人一倍ツイッターを愛し、日々インターネットの海に言葉を垂れ流さずにはいられない人間にとしては、非常に励まされるお言葉でございます。
そんなところが、「武術の原風景」の意味するところで、奥の方にはそういうテーマがあるわけですが、実際の稽古はなんというか、ゆるゆると楽しげな踊りのような見た目をしています。
No effortで正確に、というのが東南アジアらしさで、どうも日本人的には武術というと構えてしまうのですが、真面目な顔とかするのはむしろ東南アジア武術的には習得の妨げとなるようです。
先日の講習会でも、「みんな顔が真面目すぎるよ」と言われまして、それで思ったのですが、わたしは一体何に対して真面目な顔をしているのでしょうか。
一人で稽古している時もこの顔で稽古しているのでしょうか。
多分そうじゃないよなと思いました。つまり、誰かに対して、自分が真面目にやってますよというアッピールをしてたんですよね。
もうこういうのって幼い頃に身に着けた生活習慣で、まあ生きる知恵と言えないこともないのですが、子どもじみたその場しのぎの処世術ですね。
わたしって周囲の人にわたしが真面目な人間であるということを信じ込ませることが得意なようで、それで世渡りしてきたんですよね。
でまあ今になって、ほんとにしょうもないことを何十年もやってきたものだと笑えてきました。
そういう自分のしょうもなさみたいなもんにも気づくことができます笑
武術的にも音楽的にも無駄をなくすというのはとても大きなテーマですので、こういう無駄なことやめようと思います。こういうのって、ごっつい力でこびりついて、剥がすの難しいんですけどね。おかしくもないのに笑うとか、痛くもないのに「いたっ」って言うとか。幼いときに身に着けた今となっては無駄な条件反射。
「東南アジア武術」では、やってることがかなり武術らしくないので、武術やったことのない人も気後れせずに入っていける気がします。また逆にこれまで武術をがっちりやってきた人も、武術ってなんだということに取り組むきっかけになるのではないかと思います。
先日の講習会で、初参加の方に、「なぜ数ある講座から東南アジアを選ばれたのですか?」とお聞きしたのですが、「説明を読んで一番意味がわからなかったから」とお答えいただきまして、「それそれ〜〜」となりました。
わからなさを面白がれるかどうかは、光岡武学に取り組む上で非常に大きな素養と言えると思います。
わたしも最初武学受講したときに、わからなすぎて笑えました。わたしって頭の出来に少々自信があって(これは遺伝なのでわたしの手柄ではない)、大概のことはちゃんと説明されればわかると思ってたんですが、マジで全く何一つ理解できなかったんですよね。最初の数回。
それが、わたしが武学を続けようと思った最初の動機かもしれません。
わかんないままにしておくの無理なんですよね。これもただそういう負けず嫌いで諦めの悪い性分というだけなのですが。
数ある武学の講座の中でも、わからなさランキングで多分3位以内には入りそうなのが「東南アジア武術」です。
わからなさを面白がれそうな人には特にオススメです。
詳細・お申込みはこちら→https://bugakutokyo.blogspot.com/p/426-gpcgpc.html?m=1

ハワイアン八卦掌
今年、東南アジア武術と同じ日に開催することなったのがハワイアン八卦掌で、こちらもわたくし世話人をやらせていただいております。
こちらの武術もなかなか一筋縄ではいかない成り立ちをしていて、一言で説明するのが難しい部類に入ります。
八卦掌というのは中国武術で、それはググればわかることなのですが、何が「ハワイアン」??
ハワイアン八卦掌でググるとただただ武学関連の記事ばっかり出てきます。
ハワイアン八卦掌は、クリス・リー・マツオ師範が忍術、柔術、ハワイでの光岡道場での教え、龍形八卦掌、蛇形八卦掌、チベット密教や道教に至るまで、様々な要素が取り入れて形成した武術です。
基本的にこういった諸流派は「混ぜるな危険」なのですが、複数の体系を比べることによってそれぞれのアイデンティティが純化されて抽出されるという、ハワイアン八卦掌はまさに武学の理念を体現しているかのような武術です。
東南アジア武術のところでも書きましたが、様々な文化から生まれた様々な武術体系がそれぞれ際立って別々のものとして存在しながら、それでもその中にある、同じ人間としての「共有部分」に迫るという感じです。
これってまさにわたしが音楽を通してやろうとしてることなんですよね。(小声)
民族音楽学って昔は比較音楽学って呼ばれていたそうなんですが、わたしがやってることってまさにそれなんですよね。(比較音楽学のままでよかったのにねえ。)
わたしが広大時代にお世話になって今も多大なる影響を受けている古東哲明先生の専門が比較哲学で、やっぱり哲学において光岡英稔が武術によってやろうとしてることをやってるんですよね。
なのでそういう意味では武学というのは比較武術学と言えるんではないかと思います。
様々な音楽を比較することで音楽って何だ、人間って何だ、を問うことと
様々な哲学を比較することで哲学って何だ、人間って何だ、を問うことと
様々な武術を比較することで武術って何だ、人間って何だ、を問うことは
同じことをやってるんだと思います。
それでハワイアン八卦掌はそのコンセプトがひとつの武術体系として結実したものであると、そう言うとほんとめちゃくちゃ魅力的に感じられてきますね。魅力的なのですよこれが。
そんなわけであまりにも体系が膨大なので、数回講座に参加するだけだとそのほんのちょっとの片鱗に触れる感じになってしまうのですが、2-3年やってると、ああ、あれがあれで、それがこれとつながってるのかと、なんというかこう急にビキーンってエウレカ体験がやってきて病みつきになっちゃいますね。
そしてハワイアン八卦掌のテーマとなっているのが、「円周(キワ)と中心」です。これをキーワードとして傍らにおいておくと、理解の助けになると思います。自己中心性、他者中心性、自他中心性の3つの中心性を知っていくという、これだけ聞くと抽象的な概念のお話なのかなとみえてしまいますが、これらは実際に身体で経験されていきます。
武学の講座全部に共通してることですが、概念や観念や想像や妄想に一見見えるようなことを、実際に経験します。昔の人の言ってることってどこか謎めいていて何いってんだかわかるようなわからんようなことが多いのですが、身体で経験して、ああ、そういうことかってなる面白さ。
頭ではわかりにくい、というかわからないんですが、身体が経験してるんで大丈夫。安心してください。経験してますよ。
「比較武学」「円周と中心」
ピンときたかたはこちらの講座がオススメです。
https://bugakutokyo.blogspot.com/p/426gpc-gpc.html?m=1

そしてこちらは来週の金曜日の開催となりましたBUGAKUスピンオフです。
こちらは武学本体からは離れ、課外授業的に不定期で開催していましたが、今年は2か月に1回の開催が決まっております。
光岡先生のこれまでの武術の研究から、「声」というテーマで講習会をやっていただいています。
本当にそもそものそもそものそもそものことをやっているので、実際すぐにパッと自分の活動に使えるようなそんなハウツー的な何かは全然ないんですけれど、これもじっくり声の出るほんとに最初の最初のところから見つめていく、そんな講座でございます。
もともとは声のプロ限定の講座でしたが、最近はどなたでも参加していただけるようになっております。ただもともとの性質上平日昼間の開催になっておりますのでその点ご容赦ください。
わたしがなぜこう熱心に光岡先生の講座を皆様におすすめしているのかというと、これが古楽をやる上でぜひとも必要だと考えているからです。
わたしだけが上手く演奏できるようになればよいということであれば、自分が武学に通い、ひたすら稽古をしてればいいだけの話なんですが、わたしがやりたいのは「文化の再創造」なのです。
自分ひとりだけ上手くなっても意味ないのです。
なのでわたしと志をともにしてくださる皆様には是非ともどれかに参加してほしいと思っています。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeLoctyYQPe0PRlE4R-xBndgrALk2eXz4m6p1vMZqgbp5GMzw/viewform