光岡英稔 BUGAKU講座|9回目

昨日、久しぶりに光岡先生の講座に行ってまいりました。前回が2月だったので4ヶ月ぶり。なかなか仕事で休日が空かないので、今回平日夜にグループレッスンを開講してくださってとても助かりました。

それでもキャンセル待ちだったので、講座の人気ぶりが窺えます。

雑談的な内容も含めて今回も大変刺激的でした。

書ける範囲でレポートしていきたいと思います。

いつものように、このレポートは全く私櫻井元希の主観によるものであり、同じ講座に参加されている方でも、へえ、そう感じる人もいるのか、というような内容のものです。

もし少しでも興味が湧くようであれば、講座に申し込んでみてください。

少なくとも今よりちっとは楽になりますよ。

韓氏意拳講座情報 http://hsyqjapan.dreamblog.jp/

BUGAKU講座情報 http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html


以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc


講座が始まる前に、受講生同士で話しているときに「Eテレ見ました」とか「You Tube見ました」とかおっしゃっていただいてとても嬉しかったのですが、徳久さんがコエダイの練習会の動画をアップしてて↓

この動画の中で、「合ってる」と思ってる音程から上がったり下がったりするということをやったのですが、これをご覧になった方から「なぜあえてずらすんですか?」というようなことを質問いただきました。

自分の音を出しながら聴くのって実は相当難しくて、絶対に合ってる自信があっても録音聴いたらめちゃくちゃってことがよくあります。なので鬼のように絶対にブレないキーボードの音に合わせて、唸りを聞きながらあえて音をずらしたり合わせたりすることで、「合ってる」という状態と、「合ってない」という状態を知る、ということをやるんです。

というようなことをお話したら、内田さんが「武術の稽古でもやりますよね、あえて間違う、間違うということを知る」とおっしゃいました。

で、それを聞いてか聞かずか、講座の中でまさにこれをやったんです。

「観て」やったときの所作と、「意識して」やったときの所作の違い。

「観る」と「感覚する」と「意識する」をことわけるのってすごく難しくて、習い始めてからずっと大きな課題としてあったのですが、これまで「意識」をしないようにしないようにという稽古ばかりしてきて、これらを切り替えるような稽古はしてこなかったんです。

なので、むしろ「観てる」状態から「意識する」状態に入るのが難しくて、「意識する」ってなんだっけ?とか思いました笑。ただこれも層を分けて、「観る」から「感覚する」を経由するようにすると「意識する」に入れて、とてもわかり易かったです。


というのが雑談からの流れでの気づきだったのですが、講座はまず「苦と快」というテーマから始まりました。

以前も、苦は自然か、快は自然か、というようなテーマがあって、ぼんやり頭の中には残っていたのですが、少し理解が深まったように思います。

本能的には、苦は悪とされ避けられる、快は良しとされ求められる、という傾向にあるが、一方で快ばかり求めていると怠けてしまう、苦を経なければ向上はない、というような、苦を求め、快を避ける考え方もある。

詰め込み教育かゆとり教育か、みたいなもんで、両方失敗してんじゃん?と。

というところで新たな視点、その「苦・快」は自然と生じたものなのかどうか。

「不自然な苦、人為的な苦」

「不自然な快、人為的な快」

これは環境操作、またその操作された環境に適応するための身体操作から生まれたもの。自然界にはない「快・苦」がある。

例えば正座でなぜ苦が生じるのか。じっとしてるだけなのに。殴られて痛いならわかる、殴って痛いならわかる、なぜ座っているだけで足が痛くなったりするのか。これは自然の苦なのか。

電車の座席に正座で座っていた昔のおばあちゃん。呉服屋の番台で一日中正座で帳簿をつけていたおかみさん。彼らは苦行をしていたのか。

彼らにとってはそれが「快」であった。それが私たちにとって「苦」であるのはなぜか。

古来からの武術にアクセスしようとする時、少なくとも正座が「快」である身体観にシンパシーを持てるかどうかというのは大きな分岐になりそうだ。

結局の所「快と苦」は同時に存在し、移ろうものである、快がなければ苦はなく、苦がなければ快はない。

そう、クヴァンツさんも言ってますね。

「決して切断されない快楽は、われわれの感受性を弱め衰弱させ、快楽をついには快楽でなくさせる。」

というところで正座、合掌での観法に入りました。

あらかじめたてた問いに対して身体に答えを聞く、という感じの流れで、この日の観法も一味違うものになりました。

私も毎日正座、合掌で観法はやってるのですが、やはりもっとじっくり時間をかけてやらなきゃだめだなと思いました。

正座も最初の頃は座った途端に「苦」がやってきてたのですが、1年位やってると、むしろ座った瞬間は気持ちいい感じで、ずっとそうしていたいと思うほどです。が実際は5分もやってると足が痺れ始めて「苦」が生じてきます。

このときもそんな感じで5分くらいで痺れ始めたのですが、不思議なことに観法が深くなっていくとその痺れが完全に消えました。

その後どれくらい経ったかわかりませんがまた「苦」が生じ始め、しかしそれはいつものような痺れではなく、熱くてジンジンした感じ?いつもはむしろ足が冷たくなっていく感じで痺れてくるのですが、ちょっとこれまでにない体感でした。

それでまあある程度の苦は生じるものの、耐えられないほどではなく、傍らに置いておける程度のものでした。

後でうかがったのですが、観法をどこから始めるか、どう進めるかは、決めているときもあれば決めてないときもあり、決めていても始めてみたらそうならないということもあるそうです。この日も最初左肘から入ったのはその時級にそうなったそうで、かなり即興的要素が強いようです。


その後この観法を使った稽古に入るのですが、最初にかなり深く観法をやっておくと、その後の稽古で身体を観るスピードと深さが全然違います。普段の自分ならあと5秒必要だな、とか思いながらやってました。

これ以降の内容はまだオープンにはなっていないようなのですが、間合いについて教わりました。間合いは距離とは違う、距離は同じでも間合いは違うという現象を体験しました。

左右観の違いみたいなことはずっとテーマになってるように思いますが、それがより複雑化して、発展していってるような印象を受けました。

今後も追っていきたいです。


あとは完全に蛇足ですが、着替えてるときに、あ、この人ヒモトレしてるんだな、とか、あれ、これマンサンダルじゃない?とかそういうものが普通になっているこの界隈素敵やなと思いました。

私も今マンサンダル注文中なので楽しみです。

ヒモトレについて https://www.kablabo.com/2016/06/post-236.html

マンサンダルについて https://www.mansandals.net/concept/

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

先週土曜日、久しぶりにBUGAKUの講座を受けてきました。

BUGAKU・韓氏意拳関連の記事はこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
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韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
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光岡英稔BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO

最近土日の予定が全然合わせられなくて、金曜夜の韓氏意拳の講座に行くことが多かったので、今回BUGAKUはほんと久しぶりでした。

それも昼間は仕事だったので、夜だけの参加になってしまって、BUGAKUの講座は午前午後の流れがあっての夜の講座なので、ついていけるかかなり不安でしたが、せめてその場の空気だけでも吸いに行こうという思いで参加しました。

結果本当に行ってよかった。

生きながらにして生きていることを思い出す営みが芸術だと思っているのですが、この講座はまさに芸術でした。

特に観法の時間がプレシャスすぎでした笑


身と骨

BUGAKUの基本として、四方の「からだ」というのがあります。からだという漢字は今の日本では「体」という字を使いますが、古くはもっとバリエーションがあったそうで、「軆・躰・體・骵」と書いたそうです。

この4つは自分の四方のそれぞれの経験を表したもので、右前を軆、左後を躰、左前を體、右後を骵といいます。

そんなわけで身か骨かというのはひとつのポイントになってるっぽい(よくわかってない)のですが、今回は骨に注目して、これを経験的身体として捉えられるかどうかというのをみていきました。

経験的身体というのもまた説明が大変難しいのですが、物理的身体、あるいは恣意的身体(頭で妄想した身体)とは違う、経験としての身体ということです。

その喩えとして、「鏡を見たことのない人間の身体性」というのが挙げられていて、これはわかりやすいと思います。客観的に外から見た自分、というのを知らない、主観とも違う、経験としての自分のからだ。

雲を掴むような話なのですが、やはり説明してわかるものではなく、経験してみないとわからないことだと思います。

あ、今更ですがいつもの前置きを。説明してもわからないことを私は今文字にしています。

目的は自分の経験の整理がメインで、そこから生まれた思考のメモ、そしてなんかわからんけど面白そうという人が引っかかってくれないかなあという淡い期待です。笑

このどうしようもない駄文から何かを得ようとは思わないでください。経験を伴わずに言葉から掴み取った解釈は、書き手の経験からは程遠いものになります。

多分、私たちは「古典」を徹底的に誤解したまま理解した気になっている。

書き手の経験的身体へのシンパシーなくして(つまり鏡を見たことのない人間への共感)、その人が言わんとすることは理解できない。

えー少し脱線したようなしてないような。

私たちは身体を物理、概念、恣意ではかることに慣れすぎている。

それをハッキングして経験の世界へと誘う稽古が必要だということです。

というわけで今回は骨に注目して観法を行いました。

骨を一本一本観ていく。多分自分の骨を見たことのある人はそう多くないだろうし、一本残らず全部見たという人は皆無でしょう。見えないものを観る、というのが稽古の大きなめあての一つだと思います。

この「観法」、私も朝のルーティンで立ちしゃがみの型とともに毎日やってますが、今回の光岡先生の観法はほんとに芸術でした。

観れば観るほど身体が喜んでいるような、自分の経験を回想しているような、祖先とつながるような、そんな時間でした。

あ、そう、経験というのは3種類あるんでした。個人の経験、種の経験、生命の経験。生命の経験はちょっと難しくてまだわからないけれど、種の経験はわかります。種として、先祖代々の経験です。前世の記憶というとオカルトっぽいですが、おばあちゃんの記憶というと途端に現実味を持ちますよね、私たちでも。

おばあちゃんの経験が私の中にあるんですね。そうした種としての経験の蓄積にアクセスするって感じでしょうか。

現代人にわかりやすく言うと、「本能」とか言われてるもんに近いかもしれません。近いだけで全然違うと思いますけど、あえてわかりやすく言えば。

そうした経験が骨の一本一本にある。一本の骨には一本の骨の世界がある、という言い方もされえていました。

コンクリの床に裸足で正座して結構長い間観法やってましたが、不思議と今回は脚が痛くなったり痺れがきれたりということがありませんでした。

これまでは結構跪座に時々しちゃったりしてごまかしてたんですけど、今回は大丈夫でしたね。うむ。日頃の稽古の成果かしらとちょっと嬉しかったです。


線の世界

前回BUGAKUに参加したときに、自分の後ろ側に細い棒を2本おいて、定位になったり不定位になったりということをやりましたが、それを更にわかりやすくした試し稽古をしました。

右足の下に縦に、左足の下に横にマスキングテープを貼ると、定位、逆にすると不定位になるというものです。

右は縦気、左は横気なのでこれはわかりやすい。

傾向に沿っているとき定位する、そうでないとき不定位になると。

そしてこれをテープなしでやる。右足を縦に切って左足を横に切る、という感じ。

「線の世界に入る」だとかなりちんぷんかんぷんでしたが、これはやってみたらわかるという感じで腑に落ちました。

この定位・不定位を瞬時に切り替えながら所作を行うと。そして流派によってこのバランスが異なる、カポエイラは不定位の割合が大きいし、日本や中国の武術は定位の割合が大きい。ただし、どっちかだけというなは有り得ない。それは武術にならない。

音楽の場合どうでしょうか。以前弦楽器や管楽器の楽器の持ち方が不定位だというようなことを書きましたが、おそらくこれも音楽の種類によるでしょうね。

ルネポリ歌うときは定位の割合が大きいだろうし、バッハを歌うときは不定位の割合が大きい。そして音楽でもどっちかだけということはないでしょうね。

バランスとスイッチングが肝になるんだと思います。


「気」は流れない

これも私ちゃんと理解できたわけではないですが、一般に気の流れとかなんとか言われてるのは一種の錯覚なのだそうです。

気は偏在し、動かない。空間のようなもの。空間は定位し、移動しない。

しかし動いて見えるのは感覚が動いているから。動いていない「気」を動いていると錯覚する。

うん。これ私の経験と結びついてないからわかんないわ。

しかし結構衝撃的なパンチラインですよね。気は流れない。

普通に言いますもんね、気が散る、気が向く、気が回る、気が進む、気を引く。なんかこれ気が動くもんだという前提ですよね全部。

今回改めて思ったのは、教えるってことは、経験のおすそ分けのようなもんだということ。知識の切り売りでは教えたことにならないんでしょうね。

自分の経験を、相手にも経験させる。

その上でその経験に結びついた理を伝える。

本読んだだけではわからないことがあるっていうのはそういうことなんだと思います。

身体が経験するかどうか。

実感のない言葉は響かないってのにも似てると思いますが。

あとあれだ、古東哲明先生の言葉で「ある思想をほんとうに理解するには、理解する側の変容が必要」というのがあるんですが、これもそういうことですね。

理解する側と身体経験を共有していないとなにもわからん。

というわけで、私と身体経験を共有してほしいので、皆さんも是非一緒に光岡先生の講座に行きましょう!!

光岡英稔 BUGAKU講座に参加してきました(4回目)

昨日は光岡先生の講座に参加してきました。
これまでBUGAKUの講座3回、韓氏意拳の講座に1回参加してきましたが、徐々に理解が深まってきている感じがあります。

それぞれつながっていて、しかし微妙に切り口が違って、受講生の様子を見ながら進めてくださいます。

武術の講座ですが、殴り合ったりするわけではないので、音楽家の皆様にもぜひ受講してほしいです。気づきを共有したい。

ここで学んだ身体観を自分の音楽活動に活かし、また指導に活かすというテーマは私一人で抱えるには大きすぎる。

以下にこれまで私が参加してきた講座のレポートがありますので、興味のある方はぜひ行ってみてください。

それか一緒に参加しましょう。

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://00m.in/meqhZ
韓氏意拳講座 https://00m.in/anmad


異なる3つの身体観

今回学んだのは前回の韓氏意拳の講座で学んだ自然体とは何かということに地続きになっていると思われる、3つの身体観についてでした。

1.物理的身体

2.感覚的身体

3.気の身体

下にいくにしたがって意識が対象化しにくくなります。

物理的身体は意識が対象化しやすいということで、意識体ということもできます。

感覚的身体は、実体はないけれど、感覚経験として存在するということは理解しやすい。

そして気の身体というのが、理解しにくいけれど、感覚的身体と物理的身体を生む、感覚以前の身体です。

よく私の発声指導で、「状態が行為を生み、行為が現象を生む」という言い方をしていますが、「気の身体が、感覚的身体を生み、感覚的身体が物理的身体を生む」という言い方もできるかもしれません。

でもどうだろう、感覚的身体が物理的身体を生むというのは違うかも。気の身体が感覚的身体も物理的身体も生んでるような気がする。

で、気の身体というものをどうやって体認するのかというところなんですが、物理的にも感覚的にも同じ状態にしたつもりで、効果の違いを見るというのがとても分かりやすいです。

たとえば左手の甲を前、右手の掌を前にした状態で立って、前から(外力によって)押してもらいます。

この状態は不定位と呼ばれる状態で、外力に対して崩れやすい状態です。

しかし、シラットというの東南アジアの武術の型をひとつ通すと、この不定位の状態が定位します。

また一回普通に立って、今度は方を通さずにさっきと同じ手の形を作ると、またもと通り不定位になります。

本人としては、まったく同じ形(物理的身体)で、感覚的にも同じような感じがしているけれども、違う身体であるということがわかります。

そういうわけで、物理的にも感覚的にも同じであるはずなのに効き目が違う、という不思議な体験をすることで、物理的にも感覚的にも説明のできない身体というものがあるということが確認できるのです。


左右観

左右にはそれぞれ傾向があり、傾向は「気」と言ってもいい。

右=縦気

垂直、沈み、重み、閉じ、まとまり

左=横気

水平、浮き、軽さ、開き、広がり

トラック競技が左回りということともかかわりがあるそうです。左の方に広がっていきやすい傾向があるので。

脱獄犯なんかもほぼ間違いなく左に逃げていくそうです。

そして左の方が動くのに適しているのだそうです。

このことからもヴァイオリン属の構え方が理にかなっているということがわかります。

右手は縦気、沈みこむ傾向があるので弓を扱い、左手は細かい動きに適しているので、弦を押さえるのに適しているということです。


塵浄水の礼

今回初めて、相撲の礼法である塵浄水の礼をやりました。

「型、式、礼法」はいずれも、ある「手順、方向、数、形」を通ることで、その流派、体系に必要な身体観を導き出すものなのだそうです。

だから、その目的は様々。シラットの型の目的は左右の定位不定位を入れ替えるということでしたが、塵浄水の礼の目的は「肚ができること」と「腰が入ること」なのだそうです。

正座した状態で、左肩を右に、右膝を左に押されると、定位しているので動かないように耐えられます。
反対に右肩を左に、左膝を右に押されると、半分以下の力でステーンと転びます。

ところが塵浄水の礼を通った後に同じことをやると、どちらも耐えられます。

シラットは定位不定位を転換するのですが、塵浄水の礼は両方定位するんですね。これはひっじょーに面白かった。

そしてさらに、塵浄水の礼をあえて左右逆に間違えてやると、右も左も不定位になるんです。

これはひっじょーに興味深い、何も起こらなくなるんじゃなくて、両方不定位になっちゃう。

つまり両方定位するための礼法が、両方不定位にする礼法に変わってしまうんですね。

わたくし試しに一回手をたたくところを2回たたいてみました。

そうすると、両方不定位になるのですが、面白いことに、右肩左膝を押されたときに、何もしないときは左膝からスーンって崩れていたのが、左膝は動かないのに、右肩の方がぐらぐらになっちゃったんですね。

武術が型や礼を重視するのはこういう意味があったんですね。

強くなるための型なのに、手順や回数をちょっとでも間違えると、意味ないどころか、逆効果になってしまうんです。


動法と観法

これは講習会後の食事の際にお話しさせていただいたことなのですが、私こういう質問をしました。

「観法ができれば動法は必要ないのでしょうか?」

型とか式とかというのは動法といって、動きを用いて勁道を通す方法、それに対して観法は、動きによらず、自分の身体、気の偏りを「観る」ことによって勁道を通します。

つまり観法によって勁道を通すことができてしまえば、動法によって勁道を通す必要はないのではないかと思ったのです。

光岡先生の答えは、場合による、人に教えるときは観法だけで教えるのは難しい、また、動法の動きそのものが、実践における技術と直結しているので、必要ないとは言えない、ということでした。

確かに観法を人に教えるというのは凄く難しいというか、無理な気がします。動法によって勁道が通ったという体認を経ないと、観法で勁道を通すというのは意味不明だと思います。

それに加えて先生がおっしゃった、動法の動きそのものが技術に直結しているというのがとても印象的でした。

ボイトレでいうと、音階を使った発声練習は動法と言えると思うんです。音型という「型」を使うことで、その型を通る前の状態と違う状態を作り出すという意味でこの二つは共通します。

今まで西洋式、東洋式というように分けていたボイトレの考え方ですが(詳しくはコチラ)、実は両方東洋式の内に入れられるかもしれません。

つまり、動法ボイトレと観法ボイトレ。

音型という一種の「型」を使って勁道を通すのが動法ボイトレで、型を離れて身体を観ることで勁道を通すのが観法ボイトレというわけです。

そしてこの音型は、勁道を通す役目を果たしながら、実際の音楽の中でも現れるので、つまり実践でそのまま使えるわけです。

この点でも動法に対する光岡先生の考え方と一致します。

というわけで今まで私のボイトレは西洋式、東洋式と2つの異なった系統としてアプローチしてきましたが、一つの地続きのものとして捉えることができるなあと思いました。

更にBUGAKUの指導法もかなりそのままボイトレに応用できるのではないかと思います。

BUGAKUではまず①左右表裏というものがあり、自然な状態で人間がどのようなときに定位し、どのようなときに不定位になるかということを教えます。そして②それは「型、式、礼法」という動法を通すことによって変化するということを教え、それから③動法を通すことなしに、「観法」によってもそれが可能であるというところにいきます。

これはそのまま
①現在の発声状態の把握
②動法(音型練習)によってそれを変化させる
③動法によらず、観法によってそれを行う
と置き換えることができそうです。

メタ発声という言い方で観法的ボイトレを捉えていたので、どちらかというと音型練習の前に観法をやっていましたが、むしろ逆のほうが効果があるのではないかということに気づいたエウレカ体験。

早速実践していきたいと思います。


さて、明日はフォンス・フローリス古楽院の発表会です。

中世からルネサンスまでの様々な声楽作品が山のように演奏されますので、よろしければ足をお運びください。

発表会なので入場無料です。

https://www.facebook.com/events/623498888408625/

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Salicus Kammerchor

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演奏会情報

次回演奏会は

5月の第6回定期演奏会です!

https://www.salicuskammerchor.com/concert

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ウェブショップ始めました!

J. S. バッハのモテット全曲録音CDをはじめ、サリクスグッズをお買い求めいただけるウェブショップを開設しました!

https://salicus.thebase.in/ 

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サリクス通信

サリクスの最新情報や、ここでしか読めない特集記事を配信しています。

http://www.salicuskammerchor.com/mail-magazine-1

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