ヴォクスマーナ ホールリハ

ヴォクスマーナ ホールリハ

今日はヴォクスマーナで豊洲のシビックホールを借りてのリハーサルでした。

当初今回の伊左治定期は今日行われる予定で、そのためにホールをとっていたのですが、夜間NGになってしまったメンバーがいて、本番が来年1/12に移動になりました。

しかしせっかくみんなの予定とホールがとれているからということで、昼間をホールリハに充てることにしたのでした。


ホールも建物も新しくて綺麗でした。

舞台面はこんな感じ


そしてこのホールの特徴は、舞台奥の壁が開閉式なところ

開けるとこんな感じ


逆光えぐいっすね。

昼間開けて使うことはまずないのでしょう。

背中に太陽を浴びて最高に眠くなりました。

レインボーブリッジが見えるということで、夜公演だと演奏を聴きながら夜景も楽しめるというお得感。

昼間はこんな感じ


ここは来年サリクスでも使う予定ですので、設備の下見もちゃっかりやっときました。


1月の演奏会のチラシに使うということで写真撮影も行いました。

なるべくバラバラにということだったので、なるべくバラバラを身体で表現しました


あと眩しい人


見切れながら気功


そして指揮者の西川さんが引っ越すということで、ヴォクスマーナの過去の定期のチラシとプログラムを処分したいということでリハに持ってきていました。

さながらヴォクスマーナの歴史展のようでした笑


伊左治さんのアンコールピースが始まったのが2009年、7年前ですね。そのあたりからのプログラムとチラシです。

ヴォクスマーナ自体は創団20周年。歴史を感じますねぇ。


ちょっとここのところリハーサルの進め方について思うところがあって、あれこれ考えているのですが、リハーサルに関することで、私が小林道夫先生に直接言われた言葉の中でも3つ、印象的なものがあります。

一つは前回の記事にも書いた、

「取り繕うようなリハーサルはかえってまわり道だよ」

これについては前回の記事をご覧ください。

サリクスtutti練 | 羽生善治

二つ目は、下谷教会に先生がいらっしゃってリハーサルを見ていただいた帰り道での

「いいリハーサルをしてるね、信じて、続けなさい」

というお言葉です。ありがたすぎて涙が出ました。

そして、三つ目は、これはお手紙の中で書いてくださったお言葉なのですが、

「リハーサルは難しい、今でも、とても」

です。

もう、この三つの言葉だけで、生きていける気がします。

語順とか、間、とか、句読点とかまで身に染みるお言葉です。

根幹をみつめ、枝葉を枝葉として捉えながら、ある意味諦めながら(道夫先生でさえ難しいと仰るのだから)気楽に、信じて、続けます。

 

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サリクスtutti練 | 羽生善治

サリクスtutti練 | 羽生善治

今日はサリクスのtutti練でした。

より細かく、1小節を50回くらい繰り返し練習しました。

取り繕うような練習はかえってまわり道だよ

小林道夫先生に言われた言葉です。

もう取り繕うような演奏したくない。

本番でさえそういう演奏を聴くことが多いです。

それらしいもの

を目指してるうちは

それ

には決してなりません。本当に無駄骨だと思います。

もう嫌なんです。本番に向けてそこそこの演奏目指すの。

例え本番に間に合わなくても本当にやりたい演奏に向かっていたい。

こういう演奏がしたいんです、まだできてませんけど!っていう演奏の方が、取り繕ってそれらしく仕上げた隙のない演奏よりいいと思うんです。

多分聴き手も、それらしい演奏なんか聴きたくないと思うんです。

じゃあそんな演奏して誰が得するのか。同業者に評価されたいのか?


ちょっと愚痴っぽくなっちゃったので、胸のすくような話をします。

今日どこにもそんな暇ないのにうっかりこの動画を見てしまいました。

https://youtu.be/iN_zwvqaIas

もう最高、ひふみんの取り乱しようと米長邦雄のリアクションとアテレコがもう面白すぎる。

一位はひふみんの解説でもはや何言ってるかかんないし、あれ?あれれ?あれあれ?これ頓死?これ頓死かもしれませんよ?

ってほんと笑うわ。

もうこういうのは見だしたら止まりませんね。

https://youtu.be/mujurkJfQlo

いつまでも見ちゃう。中毒性高し。そうとう心を鬼にしてやめないと笑

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飢える

飢える

前も同じことを言ったことがあるような気がしますが、ここのところ深刻に音楽に飢えています。

何言ってんだと思われるでしょうが、音楽を生業としていても、音楽に出会えることは本当に稀です。

毎日いろんな現場でいろんな歌を歌って、音楽に溺れたような生活を送っているようにみえるでしょうが、私たちは渇いています。

よく年配の方々に

「昔は音楽といえばラジオくらいしかなかった、私たちは音楽に飢えていた、今は音楽が溢れている、恵まれた時代だ」

というようなことを言われますが、それは違うと思います。

溢れているのは音です。そこに音楽なんかありゃしません。

僕たちこそ、音楽に飢えています。

しかもそうと気付かずに。
恐ろしいですよね。悪夢のようです。

 

もうね、はっきり言って、本気で、全力で音楽に近づこうという気さえない人とは一緒に仕事したくないんですよね。


今週からサリクスの練習が始まります。

いい感じに超ハングリー期に突入したので、ぶつけてこようと思います。

当り散らさないように気をつけます笑


サリクスのコンサートは10/26と29、La Musica Collanaとのジョイントコンサートです。

バッハのカンタータ47番と138番をメインに、前半は、バッハのカンタータの背景となったような作品を集めてプログラムを構成しました。

こんな面白いプログラム他にないと思います。

前半のサリクス単独ステージは、バッハの時代のライプツィヒの礼拝の流れを模した(しかしそのままではない)プログラムになっています。

入祭唱モテット→キリエ・グローリア→コラール→説教→カンタータ

というのが礼拝の流れなのですが、説教以外はだいたいこの流れに沿っています。

入祭唱モテットはイザークのコラーリスコンスタンティヌスから三位一体節後第15主日のためのものを選びました。この主日はカンタータ138番が演奏された主日と同一です。

サリクスはグレゴリオ聖歌からバッハまでの流れを追うという選曲コンセプトがありますので、イザークが元にしたグレゴリオ聖歌も歌うことにしました(これはバッハの時代にはなされなかったことですが)。

そして前半の目玉はパレストリーナ作曲、バッハ編曲のミサ《シネ・ノミネ》です。この曲はバッハが演奏時に使ったであろうパート譜が残っていて、それによるとなんと通奏低音にチェンバロとオルガンとコントラバスが指定されています。

まずパレストリーナに通奏低音をつけるというのが驚きですが、それがバロック時代の習慣でした。

既にビクトリアの作品にも通奏低音を入れた形跡(バスに数字が振ってある)があるものもあるので、それ自体は不思議なことではありません。

しかしチェンバロとコントラバスが入っているというのはなかなか衝撃的です。

まぁせいぜいオルガンとチェロ、あるいはサクバットくらいのもんかと思っていたらその斜め上をいく楽器指定でした。

チェンバロとコントラバス入りのパレストリーナ、必聴です。

キリエ・グローリアのあとは4声体のコラールが歌われたそうなのですが、それだけだとつまらないので、シャインの宗教コンチェルトも加えました。

3人のソロと通奏低音という編成で、鮮やかに装飾されたコラール旋律が印象的です。

サリクス単独ステージの最後はハスラーの単純なコラールで締めます。

この2曲は、後半で演奏するカンタータ2曲に使用されたコラール「なぜ悲しむのか、我が心よ」です。

前半の後半はLa Musica Collanaの単独ステージです。ヴァイマール時代にバッハに多大なる影響を与えたヴィヴァルディのコンチェルト、そしてバッハのコンチェルトを演奏してもらいます。

バッハが作曲に使ったパレットの一つ一つの色について、その出自を明らかにするような演奏会になると思います。

ぜひぜひ演奏会に足をお運びください。

演奏会詳細はこちら↓

http://www.salicuskammerchor.com/#!concert/c2516


それから来シーズンのサリクスのサポート会員の締め切りが近づいてまいりました。

今月末が締め切りです。

まだ目標まで遠く及びません。

目標は定期会員様50名ですが、現段階で25名様のお申込みをいただいております。

この活動は本当になんとしてでも続けていきたいのです。しかし演奏会を満員にしたとしても赤字、というのが今の演奏会チケットの相場です。(5月の第2回定期演奏会も、東京公演は満員を超えるお客様においでいただきましたが、ン十万の赤字でした)

本当に皆様のお力無しには活動を継続することは不可能です。

(そこのところはこちらの記事もご参照いただけると嬉しいです→再びサポート会員募集のお願い!

皆様のご支援心よりお待ちしております。

会員になってくださった方には大変お得な特典もございます。

詳しくは以下のリンクをご覧ください。

http://www.salicuskammerchor.com/#!support/n8wnx

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言葉にしておこう

僕は本来、音楽をしてお金をもらうなんてことは本来ありえないことだと思っている。
ありえなあいのにそれがあるから、ありがてえなあ、と思っている。

お金というのは何か製品なりサービスなり、供給されたものに対して支払う対価だからだ。

音楽は製品でもサービスでもなければ、そもそも供給されるものではない。愛、と同じでそこにただあるものだ。誰かのものになることができない。
所有モードから逸脱しているという点で、音楽は需要供給の概念のそとにあるものだと思う。

ではなぜお客さんは音楽を聴きに来て、それに対してお金を払うのか。
それは、音楽の持つ、ある作用によるものではないか。
人は、オントロギッシュな猿だから、存在するという事を考えることが出来る。だから存在に対して不安をおぼえたり、生きている意味を失って絶望できたりする。
生きている意味なんかないのに、あると勘違いしてそれを追い求めたり、やっぱりないとわかってニヒルなきもちになったり、いやまてよ、意味なんかないのに生きてるってすごくね?って思ったりする。
そういうことに、音楽を含めた藝術は資する作用を持っていると思う。
それが音楽の目的ではない、というかそもそも音楽にそもそも目的はない。が、そういう力はあると思う。

つまり、生きているうちは、生きていることを忘れている、生きながらにして、生きているということを思い出させてくれるのが音楽の力である。

お客さんはその「作用」に対してお金を払っているのではないか。

音楽が人間が生きるのに必要だとされているのはそのためではないか。
本来は死ななければわからないこと、生きているということ、をわからずに生きるのは辛い。
哲学はそれを教えてはくれるけど、その方向を指し示してはくれるけど、実際にそれを体験する、実感するのは自分のこの体だから、指し示してくれた方向に歩き出すことは、自分にしかできない。音楽はその助けとなって、一緒に歩いてくれる。そんな気がする。

―――――

音楽はそもそも、在って在りつづけるものだから、誰かの音楽、よく「バッハの音楽」というような言い方をするけど、それは彼が音楽に近づこうとした証、軌跡、名残であって、バッハが音楽を作ったり、彼自身の音楽を彼自身が持っていたとかそういうことではない。
彼は受け取って、そしてそれをお返ししただけだ。

彼は「音楽の捧げもの」という曲を書いたけど、一般にはそれはフリードリヒ大王にバッハが「音楽」を捧げた、とされているけど、ドイツ語の文法からもその通りだけど、僕にはどうも字面通りには受け取れない。
音楽って、音楽から受け取って、音楽にお返しする、捧げもののようなものだよね。そんな気がする。

つまり僕らは日々音楽を音楽から受け取って、音楽を音楽に捧げている。この不毛な行ったり来たりが、「音楽する」という事なのだと思う。

だから音楽が、人間の一側面を映すものであるように、僕たちが音楽だと思っているのは、音楽の一側面にすぎない。バッハの音楽というのは、彼が死ぬほど努力して(彼は、「誰でも、私ほどに努力すれば、私くらいにはなれる」と言っています)、恐れ多くも音楽に近づこうとし、真摯に、謙虚に、そのわずかなひとかけらを切り取って、僕らにも見えるようにしてくれている。だから、彼のことを本当にわかろうとするなら、そのひとかけらではなく、彼が見たであろう音楽の姿そのものに近づかなければならない。
見えている木々が、森の一部であるように。

―――――

音楽はまた、燃え盛る炎だ。そこにあるようで、ない。でも確かに暖かい。
不断に消滅と生成を繰り返す、我々の存在そのものだ。

だから、我々の存在に究極的な原因や理由が無いように、音楽にもそれが欠けている。
にもかかわらす、在る、だからこそ、スゲー。

だから僕らが云々できる音楽というのは、音楽が映し出した影か、音楽が及ぼした作用、なんじゃないだろうか。僕らは軽々しく、音楽、音楽と言うけれど、ほんとのところ、音楽の正体を見たことがある人なんかいるのかい?見たこともないものを、よくそれだけ饒舌に語れるよなあ、あなたが見たのはほんとに音楽かい?(お前だよお前、え?オレ?)と、思ったりもする。

こんなに音楽に溢れた時代はいまだなかったと言われる。我々の時代は音楽に飢えていた、と。
だけど、僕はそうじゃないと思う。今の時代は、音楽に溢れてなんかいない。今ほど音楽に飢えた時代はいまだなかっただろう。僕たちが音楽だと錯覚しているものは、音だ。音楽じゃない。一見音楽のようだけれど、音楽のような形をした音だ。音楽じゃない。

音楽を、それも生で聴けるような機会は、残念だけど、それほど多くない。
僕も数回しか聴いたことがないと思う。僕の記憶はあてにならないけど。

私の為に死んで下さい

本日のカンタータ練習における、副演奏委員長の発言です。

Kyrie eleisonと呼びかけることは、つまりそういうことなのだと。
それ言われちゃうとね、ざっくりとした練習になっちゃいますね。細かいテクニカルなこととは全然違う次元の話なので。
でも、それが無いと何も始まらないので、取り繕うような練習をするよりはるかに実りのある練習になると思います。
順序というか、目的と手段をはき違えないことはとても大事なことです。
根幹をしかと見据え、枝葉を枝葉として捉えること。
テクニックは音楽の為にあるのであってその逆は有り得ないのです。
そういう意味で、日本の音楽教育は根本からひどい勘違いをしていると思います。
そしてそれは音楽に限ったことではないと思います。
目的の前に手段を与えて何になるでしょう。テクニックの為に身につけたテクニックは、表現の邪魔になるだけです。
僕が何年もかけて身につけたテクニックは、脱ぎ去らなければならないうわべのテクニックでした。
それは今や音楽から自由を奪う枷となっています。
それらが無駄だったとは言いません。良い反面教師でした。
自分が何の為に音楽をしているのか、考えた事もない人が多いように思います。

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