光岡英稔 BUGAKU講座11回目|韓氏意拳講座7回目

先週末金曜日にまた光岡先生の講座に行ってきました。

午後にBUGAKUのプライベート講座、夜間に韓氏意拳の講座だったので、タイトルが長くなってしまいました。。

前回の講座参加から約2ヶ月あいてしまって、ちょっと不安がありましたが、今回もがっつり学んできましたので、私の理解している範囲でレポートしていきたいと思います。


【これまでのレポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1


止観法

今回のBUGAKUの講座はまず観法から始まりました。

観法というのは自分の身体を観ていくというもので、シンプルだけど奥が深い、BUGAKUにおける基本にして奥義、みたいなものです。

観ていくことで身体の状態を変える。

その観法の新バージョン「止観法」。

とめるという字ですが、ここでは「やめる」という意味なのだそうで、

「右手が、右手であろうとしていることを、止める」

と言われた瞬間総毛立ちました。

わお。わしの右手は、右手であろうとしとったんか。ご苦労じゃったなあ。

と思いました。

こんな調子で、全身の各部分を観法で観ながら「〜であろうとしていること」を止めていきます。

家帰ってから何度もやってみましたが、私の場合、目と脳がなかなか止めれないようでした。

しょうみな話、右手が右手であろうとしていることを止めても、右手は在るんですよね。無くなったりしない。ということは右手であろうとしていることは余計なことなので、止める。余分を無くすことで、ポテンシャルを活かす。

そういうことなのだと思います。

私たち、父であったり、母であったり、子であったり、教師であったり、自衛隊員であったり、ビートボックスラバーであったりしますけど、過度にそうあろうとすることは負担になりますよね。ときどき息苦しくなる。

身体にもそういう思いをさせていたのかもしれないなと思いました。

わたくしこの2年ほど毎朝稽古やってるんですけどその中で最近四足で家を歩き回るというのやっていまして、この止観法で手が手であろうとすることを止めたら、四足で歩くのが楽になりました。手であろうとしたまま前足として運用するのはやっぱり無理があったんだろうなと思います。

多分こういうことがしょっちゅう起こってる。日々の生活のなかでみつめていきたいと思います。


受け入れて、結んで、ほどく

後半はフィリピン武術の組み手?のようなことをしました。

なんとなく周りから見ていると一見アルプス一万尺の一種かなと思うようなリズミカルな動き。歌でも合わせてやると良さそう。

ナイフでの攻防を前提としてもので、もうそういうシチュエーションになったらそういう動きが出ちゃうっている「手癖」をつけるということでしたが、ガチで丁寧で、正確にしかもリラックスして、というのが本当に難しかったです。

雑談しながらぱっぱっぱっと何時間でもできるような感じで、実際雑談しながらやってみたのですが、その中でいいかげんにならずに正確に動くというのはこれ日々やってないとできるようにならないのではないかと思いました。

終盤で、実際に練習用のナイフを持っての稽古も行いましたが、デモンストレーションで2回ほど死にました。

腰をぶすっと刺されたのと首をスパッと切られたのですが、首は私が持ってるナイフで切られたんですね。

ほんとアニメかCGみたいでした。自分の手がどういう軌道で、どのように自分の首を切ったのか、全く認識できなかった。

速さと正確さが尋常じゃない。

きれいに、切れましたね。と言うと、いや、動脈は外してる。とのこと。練習用のナイフですが、一応外してくださったみたいです。。。

このレベルの使い手に暗殺依頼されたらひとたまりもないですね。暗殺者に狙われないような生活を送ろっと(向上心はどこに)


黄帝内経

ここからは韓氏意拳の講座の内容です。

中国文化の背景から韓氏意拳を考えるというのがテーマになっていて、四足の身体観から進化の過程を追いながらのアプローチは、黄帝内経の考え方がベースになっているそうです。

四足から後足歩行、道具の経験を経て二足歩行へと進化していくという過程を追うように試し稽古を行うと、人間の身体が持っている特徴を発見することができます。

いつも書いてるような気がしますが、これは経験してみるとなるほどそういうことかとわかるんですけど、経験してみないと絶対わからないと思います。多分。経験なしに理解しようと思ったことがないのでわかりませんが。。

これらの稽古をやっている間、光岡先生に「最近五体投地はやってる?」と聞かれまして、やってますよと答えると「伸びる方はやってる?」と更に聞かれまして、伸びる方、、やってないですけど、伸びる方もやったほうがいいんですか?と聞くと、「いや、聞いてみただけ」とのこと。

五体投地から站樁

きいてみただけかーい!というツッコミを心に秘めながらおりましたら、なんと五体投地から站樁への入り方という全く想定外の流れになりました。

私がいつもやっている、仏教系の五体投地には、王向斉の站樁と親和性があるのだそうです。

そうなるとやはり気になるのは、韓氏意拳の站樁にはどうやって入ればいいのかということ。

質問すると「それは明日やろうと思ってたんだけど・・・今日もやるか」

いや質問してよかったー翌日の講座には行けなかったので。来月まで悶々としながら生きるところでした。

そこで出てきたのが伸びる方の五体投地、それは密教系の五体投地なのだそうです。

徳久さんがよくやってるトゥバ式の五体投地にかなり近かったです。

確かに言われてみれば、地面に両手をびたーっと伸ばすこの形、挙式に近い。。

これなんですよね。言われてみて、やってみて初めてなるほどとわかる。これを自分の感性(と観性)でみずから発見するというのは一体どういう仕組なんだろうと思うのですが、自分の身体との深い対話によって導かれるものなのでしょう。やはり観法。これを深めないといけないんでしょうね。

楽譜と対話しながら、そこに隠されたことわりを発見するのに似てるのかもしれない。ただ楽譜は見えるけど身体は見えない。身体を観る目を養わないとあかんのです。

目に見えてる世界は世界の1%なんだろうな。

ということで今まで私は意拳と相性のいい五体投地と韓氏意拳の站樁や形体訓練を組み合わせて練習してしまっていたんですがこれはチャンポンだったようです。

うーむ。

これまでとにかく習ったことで一人でできることは全部やろうと思ってやってましたが、練習メニューをもっと精査しなければならなかったです。

これ合唱のボイトレではいつも言ってることで、ここではいくつかの練習方法を提示するので、自分に合うものを選んでやってくださいってことなんですね。

ひとにはいつも言ってるのに自分のことになるとただがむしゃらにやれること全部やろうとしてた。

まあ一つにはだんだん習ったことが蓄積されてきて、一人稽古でできるものが選択できるくらい増えてきたということもあるんだと思います。

ちょっと一回書き出して整理してみよう。

それでその日に合った稽古方法を選べるようにしよう。と心に決めた一日でした。


パパド忘れてますよ

BUGAKUの講習会の終わりに、受講生の方からGENKI専用ドリンクをいただきました。

めっちゃいいですよね笑

そこでハッとしたのです。今日パパド持ってねえ。

最近パパド配りおじさんというのをやっていまして、ことあるごとにパパドを布教しています。

パパドって豆でできたうすーいせんべいみたいなもんで、油で5秒揚げるだけで二度とポテチ買わなくていい体になるっていう悪魔の食べ物なんですけど、この日に限って在庫を切らしていました。

私としたことが。。油断した。。

今度の講座には忘れず持っていこうと思います!

光岡英稔 韓氏意拳講座|7回目

またまた光岡先生の講座に参加してきました。

今回は韓氏意拳の講座です。

午前中仕事だったので、午後・夕方の2コマを受講しました。

このレポートもBUGAKUの方と合わせて16回目になります。なんだかもういよいよ内容がコアになっていって、いっそう文字で表すだけではなにがなんだかわからない感じになっていますが、自分の記憶の定着のためと、講座を経ての自分の気づきのメモをしていこうと思います。

ほんと光岡先生の講座は経験してみないとわからないことばかりなので、皆様ぜひこんなブログを読んでないで講座の申込みをしてください笑。

『BUGAKU』講習会のHP
http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html

韓氏意拳光岡教室のHP
https://hsyqjapan.dreama.jp/40/87/


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四足歩行

韓氏意拳の講座と言いながら、光岡先生の講座では韓氏意拳の体系に入る以前の基礎についてをかなりしっかりやります。

站樁も形体訓練も全くやらないこともザラです。

今回の午後の講座でも、中国文化圏や、韓氏意拳の基本的な考え方や用語などは登場しますが、実際実技でやるのは「四足で歩く、二足で立つ」ということです。

二足で立てなければ武術もクソもないし、二足で立つための前提として四足の身体観を稽古する、という感じです。

今回あらためて感じたのは、「意識して〜する」ということがいかに我々の脳味噌に「良いこと」として刷り込まれているかということで、私が参加した初級講座のほとんどで、受講生のだれかしらが「〜を意識してやるんですね」などと発言します。

そのたびに光岡先生は、「私は講座の中で『意識して〜する』ということを一度も言ったことがありません」とおっしゃるのですが、それを聞いたあとでさえ「いし・・・じゃなくて、えー観る」と口から勝手に出てくる受講生がたくさんいます。

韓氏意拳では「不用力・不費脳」という考え方があり、これは力を用いない、脳を費やさない、ということなのですが、「意識して〜する」というのは脳を費やしていることになります。

脳は身体の1%という言い方もされますが、脳は身体にとってそんなに大きな働きはできないし、できると錯覚してしまうことが身体全体の機能を阻害するんですね。

しかしこれは本当に難しい。見た目ではわからない。けど観た目ではわかります。

韓氏意拳の教練の内田先生に「櫻井さんいつものこの辺にいるんですけど」と胸のあたりを示されたのですが、たしかに私デフォルトの状態だとそのあたりにいて、そこから降りていくのに努力感がいります。

それでもまだマシになってきた方で、10年前はどこにもいなかったです。私が。私の身体に。

脳にいればまだ良いほうなんでしょうけど、脳にいるというよりは脳の中でイメージしたバーチャルな私しか存在してなかったですね。もう、身体は死んだも同然でした。実際その頃は死のう死のうと努力していましたね。

希死念慮というやつは、身体に自分がいないというところから始まるんじゃないかな。と今ふと思いましたが、あながち妄想でもなさそうだな。

というわけで、観る人が観ればどこを観てるかはわかるのですが、見た目ではわかりません。

なので本当に観れてるかどうかは、試し稽古でチェックすることになります。

「意識すると身体はバラバラになる」「観るとまとまる」これは本人にとっては区別がつきにくいがために、一生懸命逆効果になることを稽古している可能性すらあります。

だから一人稽古の中にも試し稽古を取り入れられないかと思うのですが、なかなか難しいですね。

今のところ、たまに妻に「ちょっとここ押して」とか頼んでます。

四足で今回とても印象深かったのは、まず世話人の某I毛さんの同足歩行がめちゃめちゃ軽やかだったということで、もう歩行というか走行でしたね。見事でした。

私も家が狭いからなあとか言い訳してないで公園行って稽古しよう。と思いまして翌日公演で裸足に素手でやってみたのですが、公演の土って海から持ってきたんですかね?貝殻とか混じったかなり鋭利な砂利で、めっちゃ痛かったです笑。けど室内でやってるのとも違う身体観が得られたので、懲りずに続けたいと思います。

もう一つ印象深かったのは、前足の親指問題です。四足の哺乳類って歩くとき親指が地面に着いてないんですよね。手首のあたりにある。だから我々が四足で歩くときも親指を少し浮かせるようにすると歩きやすい。

っていうのはやってみればわかります。全然違います。でも四足で歩いたことのない人には絶対わからないです。

で、私が思ったのは、私らはこれを光岡先生から教わるからわかる。しかし光岡先生は誰から教わったわけではなく、自分の身体を通してそれを発見する。発見というか、それが当たり前、当然このほうがやりやすいじゃんねえって身体が知ってる、みたいな感じなんですよね。

この感性と観性、これがもう決定的に私たちとは違う。

私たちは教わったことに縛られて自分で何かを見つけ出すという感性や観性を失っている。教わったことの中で稽古することしか考えてない。

でももともとこの能力は備わっているはずなんですよね。蓋をしているだけで。何かふとこうな気がする、とか思っても、根拠のないことだと思ってすぐ捨ててしまう。感覚的なこと、野生のカンみたいなものを、頼りないものと思ってしまう。そういう思考構造になってしまっている。

それで自ら感性や観性を削ぎ落としていって、それがもっとひどくなるとマジで感覚すらなくなっていく。(味や匂いがしなくなったりね笑)

私も剣道部やってたころ痛みを無視する技を身につけてしまって、そのうち心の痛みも無視するようになって、一番ひどいときは、アイロンが腕に当たってるのに「うん、熱いね、で?」て脳で考えてる間に大火傷するという有様でした。そのくらい身体がバラバラだった。

今は流石にそこまでではないけど、そう、なんていうか、反射的に身体が動くかどうかってほんと重要な目安になると思います。身体が何かを感じて動き出すまでに思考や意識が介入しない状態というか。

感覚的なこととか、なんかそんな気がする、というのを捨てないで、掘り下げていけるかどうか、そういう稽古も必要なんだろうなと思います。


站樁は一つじゃない

夕方のコマはもうそれはそれは衝撃的な内容でした。

意拳の系譜、王向斉、韓星橋、韓星垣、韓競辰の4人には、4通りの站樁がある。

なんですとおお。でしたね私にとっては。

でどう違うかというところを今回は王向斉と韓競辰の站樁の違いということで学んでいきました。

ここからの展開がもう凄すぎて、我々の四足の先祖と二足の先輩の身体観をインストールせよって感じなのですが、あまりにもハイレベルすぎて文章にならないので、諦めます笑

二足の先輩って何かっていうと恐竜なんですよねえ。

「経験」というのは個としての経験、種としての経験、生命としての経験があって、我々脳が覚えているようなことは個としての経験のそのまたほんの一部なのである。

というのは理解していたのですが、まさか直接の祖先でない恐竜の経験までは思考が至ってなかったっす。ただ生命としての経験という意味では恐竜の経験も我々は持っていると。

この話は某I毛さんが、王向斉の身体観で韓競辰の站樁を稽古していたところ体調が悪くなった、というところから発展したそうなのですが、実は私も黙ってましたがこの1・2ヶ月同じことをしておりまして、なんか最近仙骨痛いなあとか思ってたんですよね・・・・笑

それでこの講座を受けてから毎朝の站樁のやり方を変えたら、3日くらいで跡形もなく痛みが消えました笑

いやしかしこれは良いことなんです。間違ったものには間違った結果があるということが確かめられたわけで、間違うことができるというというのも実力なのです( •̀∀•́ ) ✧ドヤ━━

站樁が意味を為していないと、間違った結果も起こらないわけですからね。

I毛さんがどうもおかしいということに気づいて、光岡先生にお話されたのでしょうけど、それが稽古に結びついたものであると気づいた観性が素晴らしいと思います。私はなんか仙骨痛いなーと思ってましたが、それと稽古は全く結びついてなかったので。

おかしいことにおかしいと気づけるのもまた観性ですよね。

それが、これとこれの食い合わせが悪いからやと気づけるのもまた凄いですが。

もうとにかく我々の社会は良くも悪くも刺激が多すぎ強すぎで、観性や感性に蓋をしていないと息もできないんす。

快も不快も感じにくくしていないと爆発してしまう。そういえば鈍感力という本があったなあ昔。

鈍くなることは適応なんですよね。そうしないとしんどくって生きていけない。

けどそれが何を生んできたのか、そろそろ学んでもいい頃では、と思います。


ということで今回は特に、講座のレポートというよりは、そこからこんなことを考えてましたよという愚にもつかない私の感想になってしまいましたが、そもそも講座で起きていることを文字にするのは不可能だし、下手に説明しても絶対に誤解される自信があるので、このくらいで勘弁していただければと思います。

とにかく今回の講座も非常に重要な気づきがたくさんあって、あたしゃあ鼻血が出そうなほど興奮してるよってことが伝わったらなと思います。


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光岡英稔 BUGAKU講座|10回目

昨日も行ってきましたBUGAKUの講座。気づけば最近このブログの半分くらいは光岡先生の講座関係な気がしています。私は何屋で、なんのためにこのブログを書いているのでしょうか。お気を確かに。

今に始まったことではないですね笑

やっぱり演奏会自体は減ってる傾向にあって、ブログに書くお知らせが減ってきているということもあります。

かといってなんにもないかといえばそんなこともないので、もうちょいまめにお知らせブログもかかねばならんなあと思っているところであります。

とりあえず今できるお知らせは、Salicus Kammerchorの演奏動画が公開されましたよーということ

詳細→https://is.gd/wh41Eq

と、Salicus Kammerchorの演奏会情報チェックしてねーということ

https://www.salicuskammerchor.com/concert

です。

演奏動画無料なのでぜひ多くの方に聴いていただきたいです。1時間ほどの動画です。


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もうBUGAKU10回目なんですね。3年前の11月に初参加だったようなので、それを思うとまだ10回目というべきかもしれません。

今回も私が経験したことをレポートしていきたいと思います。このレポートは①自分の経験したことの定着のため、②こういうことに興味を持ってくれる人が増えたらいいなあ、③こういうことを踏まえて演奏活動、指導をしてますよという宣伝のためにやっています。


武学の基礎の基礎

今回は基礎のコースから3コマ続けて受講できました。講座は武学の基礎の基礎についてのお話から。基礎の基礎と言っても、一生かけてもこれを本当に修めるということができるのか疑問、という内容です。果てしない。

それは「身体観の層位」で、私達が身体と思っているのは、身体のほんの一部に過ぎない、身体の層位の深いところにアクセスしていくことで、身体が本領を発揮する、というようなことです。

身体観の層位については以前のレポートでも書いてますので、ここでは5つの層位を羅列するだけにとどめておきます。

①思惟的身体

②物理的身体

③感覚体

④客体

⑤気之体

この5つの層位の違いを経験するために、さまざまな試し稽古を行います。

物理的に条件を同じにした上で、何をどうすると、何が起こるのか。

物理的な思考に慣れている人にとっては魔法にしか見えません。

しかしテクノロジーを知らない人にとってテクノロジーが魔法にしか見えないように、物理的思考に慣れている人にとって魔法にしか見えないことにも、物理とは違う「理」があり、それを経験した者にとっては当たり前のこととなります。

その理を経験して、稽古すれば、一見魔法にしか見えないことも実践できるようになります。

左右の気の違いだけでも、最初は驚いたし、にわかには信じられなかったです。しかし自分の身体に起こっていることなので、受け入れざるを得ません。これはもうやってみた人にしかわからない。

今回は武術として求められる身体観と、一定のルールに基づいた中で行われる競技の中では役に立つ考え方と、そういったことにも踏み込みつつ稽古していきました。

現代人はまず身体を概念化してしまっているので、左右の定位不定位が崩れ、両弱化している。だから両方を均等に筋トレしようという発想になる。両弱化した者同士では、筋トレしたほうが勝つし、その競技の中で必要な一方向の動き、のようなものに対しては筋肉を鍛えることで強くなる。

ただそれを知っていないと、ルール無用の世界においては通用しない。全く予測不可能な360°の力に対して対処できるか、舞楽で扱う強さというのはそういうこと。

またオリンピックで話題になった空手の型についても言及がありました。

個人的な思いをここに書くとあまりにもな文章になってしまったのでやめておきます笑

見栄えを良くするためには無駄な動きを加えなければならない。競技としては動きが見えなきゃだめだけど、そもそも武術としては見えちゃだめ。競技としてダメな型の方が本来の型の意味としては効果がある。

というような話でした。これは個人的なアレではなく講座の中でのお話です。

あーオブラートに包むの大変だなあああああ笑

しかしまあ音楽に置き換えますと、抽象的な意味における大きな「音楽」というのはルール無用変幻自在の本当に自由なものだと思いますが、それを人間というフィルターに通したあとのいわゆる我々の目に見え、耳が聞く「音楽」の中にはある程度のルールがありますよね。

ある民族とか、文化とか、ジャンルとか、コミュニティとか、あるいは個人の単位でも、これが良くてこれはダメっていう人間の美に対する価値観のフィルターがある。

その価値観ってやつも流動的なもので、例えば私オペラ歌手の恒常的ビブラートに対するアレルギーがあったんですけど、インド音楽を学んで、ガマックという装飾を教わったあとでそれを聴くと、ああ上手なガマックだなあって聞けるようになったんですよね笑

そんなもんだとは思うのですが、わたくし思うに、そのルールのもとで音楽をやっていたとしても、例えばバッハのカンタータをやります、というのは少なくともバッハの書いた楽譜というルールに従わなければならないわけですが、そのルールの中でしか通用しない身体観で闘うのと、ルール無用の音楽を前提とした身体観で闘うのは全く別のことだと思うのです。

バッハという個人のフィルターを通して私達の前に現れた「音楽」を見る、というより、バッハが観ていた抽象的な意味における大きな「音楽」をバッハを通して観る、というのが私の音楽観なんですよねえ。

作曲家、演奏家は音楽を濾して見える形にするフィルターなんだと思います。

脱線しましたが、そういうことも踏まえつつ私は武学をやってるのだなあと今思いました。


型・式・礼法の理解

型の意味というのは、その体系や流派に必要な身体性の獲得、相撲の塵手水の礼は肚や腰を作って筋肉によらずとも安定した身体性を身につける。

これは自然法則の発見で、こうやってこうすると、こうなる、というのを経験から抽出したものなのだそうです。

これちょっと私達からするとなかなか想像できないようなことなんですけど、光岡先生はそれもやっていて、そうしてできたのが立ちしゃがみの型なんですよね。

これはバージョンアップが続いていて、今回習ったものは前回までに習ったものとまた変わっていました。

新しい型を習うのってワクワクします。新たな身体性を獲得するということは、新たな自分を知るということですよね。今までの自分とは違う自分になる。たーのしい。

今回はこの新しい立ちしゃがみの型と、塵手水の礼を客体でやって、それぞれの効果を比べるということもやりました。

客体で型をやるのは過去にもやったのですが、その時はなかなかうまくいかなかったんです。がしかし今回はうまくいきました。

試し稽古のお相手がガチ中のガチの某Yさんだったので余計嬉しかったです。

また今回は木刀を使った型も教わって、これも朝のルーティンに加えました。家のものを壊さないように気をつけながら続けたいと思います笑

あと今回衝撃的だったのは、光岡先生のカリスティック(2本の棒、ほんとにわりとただの棒)を使ったデモンストレーションで、なんていうんでしょう蜘蛛のように地を這いながらビュンビュンカリスティックを振っていくのがマジで見えなくて、戦慄しました。

帰りに参加者の某空手の先生ともお話させていただいたのですが、あれと渡り合うためにはどうすればいいのか、それが今後の大きな課題になりそうです。

いや、いいものを見ました。

今回も文字ばっかりの記事になってしまいましたが、読んでくださった皆様誠にありがとうございます。

感想や訂正などありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

光岡英稔 韓氏意拳講座|6回目

先週土曜日、久しぶりに韓氏意拳の講座に行ってきました。私去年会員になってたんですが、全然都合つかなくて、会員用の講座を受けられたのは今回が初めてでした。

午前が非会員でも参加できる初級講座、午後が会員向けの初級講座でした。

今回も自分のメモのため、またこういう世界があるよっていう紹介のため、レポートを書いていこうと思います。

あの、ほんと私が参加してるくらいなので、ハードルはかなり低いですよ。どなたでも参加できます。

ここでしか学べない、ほんとうに大切なことを学べるので、よかったら一緒に受講しませんか。


以前のレポートはこちら↓

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韓氏意拳という体系

午前の講座はいつものように、中国文化圏でどのようにして韓氏意拳が生まれ、これがどんなバックボーンを持っているのかについての講義から始まりました。

そしてこの天才が作った体系を私たち普通の人が受容するためには何が必要なのか。

まずは根本のコンセプトに対する理解、そしてこれを生んだ人々の身体観へのアプローチ。

ある思想を理解するためには、理解する側の変容が必要であると古東哲明先生が言っていますが、それを身体ごとやるという感じです。これを作った人の身体観へのシンパシーなしにこの体系を身に着けることはできません。

また中国文化圏における身体観を問う前に、人間、人類、ヒトとしての身体観を問うことも必要になります。

それもまた中国文化の考え方を引用しながら、人間が四足歩行から二足歩行へと推移していった過程でどのような変化があったかをみていきます。

そこで実際四足歩行の身体観とはなんぞやということを実際四つ足で歩いてみることによって経験していくのですが、この稽古は物凄く効果があるんですけど場所を選びますよねえ。

普段からやりたいとは思うのですが、家の中は狭いし外でやると通報されそうだし、どうしたもんかと思っております。

四足歩行には交差歩行、同側歩行、前後歩行とあるのですが、この順番に安定性が減って動力が増します。

つまり交差歩行は安定しているけど動力は小さく、前後歩行は不安定だけれど動力が大きい。

やってみて感じたのは、前後歩行(カエルとかウサギのような感じ)だと、1歩で止まるのが凄く難しい。1歩進むと2歩3歩勝手に進んじゃう。1歩で止まるのはなかなか努力がいりました。

印象的だったのは同側歩行にバリエーションが多いということ。受講者の同側歩行を見ていると、歩行形態は同じなのに、歩幅とか、前後どちらの足が先に浮くか、どちらの足が先に着くかなど、見た目に違いがはっきり出ていてとても面白かったです。それぞれが持っている集注観が違うからかと思いましたが、加速しようとしているか、減速しようとしているかによっても変わるそうです。

あと今回もあえて間違ってみるという稽古をやったのですが、これがもう笑っちゃいました。

老子の教えで「万物は陰を負いて陽を抱き 冲気を持って和を為す」というのがありまして、その通りに四つ足で歩いた時と、その教えに背いて陰を抱いて陽を負いた時の違いをみるのですが、もう老子先生ごめんなさい二度と教えには背きませんって感じでした。手も足も出ないとはこのことですな。


「二足で立つ・歩く」とは

午後のクラスの前に、みんなでお弁当をご一緒したのですが、そこでの雑談も楽しかったなあ。基本私が光岡先生を質問攻めにしてたんですが笑。

光岡先生のハワイ時代のエピソードはもう漫画みたいで面白いです。あんまりここに書いていいような内容ではなかったような気がするので、気になる方は個別にお問い合わせください笑

午後は韓氏意拳の前身(?)となった心意拳、形意拳について。

心と意の違いとは。

私の印象では、なんとなく「意」の方がとらえどころがあるというか、具体性を帯びている感じがして、「心」のほうは、もう茫漠としてわからんなあという感じがしてました。心ってなんなんでしょうね。

意拳は意味が分かるけど、心拳だとちょっと私にとってはよくわからない。と思って検索したら心拳というのもあるんですね。失礼しました。。。

形意拳の名前となっている「形」はまさにかたち、構造のことを指します。こちらはもうこの上なく明確ですね。

ただ、どういう形が自然で、どういう形が不自然なのか、を問う時に、それが中国武術の中での自然なのか、アジアや、アフリカ、ヨーロッパだとどうなのか、人間、人類としてどうなのか。

というところで、また人類としての自然な「立つ形」についての稽古に入りました。

膝で足先が隠れるまで腰を落として、その時の脛の角度と同じ角度になるまで上半身を前傾していくというのがその形で、これは以前にもやったことがあったし、出来てると思っていたのですが、どうやら上半身の角度が甘かったらしく、また上半身の角度をつけようとすると腰の位置が下がりすぎてしまうということになっていました。

それをこう光岡先生がこっちこっちって手で矯正してくださるのですが、センセーアタシの腰はそっちには曲がりません!!って感じで超きつかったです。

安定した形というのは必ずしも楽ではない。少なくとも我々にとっては。

稽古を積んでいくとこの形が楽になっていくのだろうと、これは正座の稽古でも同じですね。

我々にとっては「苦」だけれど、100年さかのぼればこの形は「楽」であったのだと、電車の座席に正座で座っていたおばあちゃんが教えてくれます。

武術の場合、安定して立つということは前提にはなりますが実際には動けなければなりません。(けど立ててもいないのに動けるわけなんかないとも言えると思います)

四つ足の歩行形態の時にも確認しましたが、運動性は安定性と反比例します。動こうとすると不安定を作らなければならない。安定した立ち方ができても、動いたときに不安定になってしまうなら武術としてはマズい。動けるけど安定しているという矛盾をいかにクリアするか。

ということで二つの方法を学びました。安定した形のまま、站椿の結束式の時のように傾斜をつける。そうすると安定した形のまま勝手に身体が前に進みます。

もう一つは一瞬不安定を作ってすぐ安定に戻るというやり方。これはかなり難しかったです。

安定した形を作るときは、上記の老子の教えの通り、陽の面を観るのですが、動き出そうとするその瞬間に、ほんの一瞬陰の面を観る。その不安定を利用して動き出し、瞬時にまた陽の面に戻る。

相当観法の稽古を積まないとこのスピードではできません。

私の場合ですが、陰の面から陽の面に戻るのが遅くてうまくいきませんでした。

ここまでで午後の講座が終わりました。

午前中から午後にかけて四つ足から二足に進化して、立って数歩歩く、ということを学びました。

これらは韓氏意拳の体系そのものではないですが、そこに足を踏み入れるための基本、二足歩行の人間として根底にあるものです。

そこに中国文化圏の考え方でアプローチしていくというのが、光岡先生の韓氏意拳初級講座なのだと思います。

午前午後を費やして、ついにこの日は挙式(站椿の最初)も前擺(形体訓練の最初)もやりませんでした。

けど足腰ボロボロになりました。笑

立って歩いただけですよ!立って歩くだけでこんなことになりますかね!

いやほんと。早く立って歩けるようになりたい。

かといって四つ足で歩けるわけでもないから赤ん坊以下だな笑

月曜から5日連続カペラの稽古なんですが、普通は座って歌うんですが、例の立ち方の稽古をしつつ歌っています。おかげさまでなぜか筋肉痛はなく、足がボロボロのままです笑

立つこともできないのに歌なんか歌えるわけがないだろうが。という感じですが、精進します。。

カペラは今ベルギーの音楽祭に出品する演奏動画(録画は来週)を製作するためにリハやってます。一般公開はされるのだろうか、、よくわかりません笑

あと再来週はSalicus Kammerchorでも演奏動画を撮ります。こちらは立教大学の米沢陽子さんの研究発表のための動画で、こちらはいずれ大学のHPで公開されるはずです。

こういう状況で、お客さんを入れてのコンサートよりこうした録画の機会が増えてきましたね。

まだまだ全然慣れないですが、ひとつひとつ乗り越えていきたいです。

「引きこもるんだよ、身体に、足の輪郭に、やることは山のようにある!(外的要素に)反応している暇はない!」

光岡英稔 BUGAKU講座|9回目

昨日、久しぶりに光岡先生の講座に行ってまいりました。前回が2月だったので4ヶ月ぶり。なかなか仕事で休日が空かないので、今回平日夜にグループレッスンを開講してくださってとても助かりました。

それでもキャンセル待ちだったので、講座の人気ぶりが窺えます。

雑談的な内容も含めて今回も大変刺激的でした。

書ける範囲でレポートしていきたいと思います。

いつものように、このレポートは全く私櫻井元希の主観によるものであり、同じ講座に参加されている方でも、へえ、そう感じる人もいるのか、というような内容のものです。

もし少しでも興味が湧くようであれば、講座に申し込んでみてください。

少なくとも今よりちっとは楽になりますよ。

韓氏意拳講座情報 http://hsyqjapan.dreamblog.jp/

BUGAKU講座情報 http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html


以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc


講座が始まる前に、受講生同士で話しているときに「Eテレ見ました」とか「You Tube見ました」とかおっしゃっていただいてとても嬉しかったのですが、徳久さんがコエダイの練習会の動画をアップしてて↓

https://youtu.be/5YQTu1j2I1s

この動画の中で、「合ってる」と思ってる音程から上がったり下がったりするということをやったのですが、これをご覧になった方から「なぜあえてずらすんですか?」というようなことを質問いただきました。

自分の音を出しながら聴くのって実は相当難しくて、絶対に合ってる自信があっても録音聴いたらめちゃくちゃってことがよくあります。なので鬼のように絶対にブレないキーボードの音に合わせて、唸りを聞きながらあえて音をずらしたり合わせたりすることで、「合ってる」という状態と、「合ってない」という状態を知る、ということをやるんです。

というようなことをお話したら、内田さんが「武術の稽古でもやりますよね、あえて間違う、間違うということを知る」とおっしゃいました。

で、それを聞いてか聞かずか、講座の中でまさにこれをやったんです。

「観て」やったときの所作と、「意識して」やったときの所作の違い。

「観る」と「感覚する」と「意識する」をことわけるのってすごく難しくて、習い始めてからずっと大きな課題としてあったのですが、これまで「意識」をしないようにしないようにという稽古ばかりしてきて、これらを切り替えるような稽古はしてこなかったんです。

なので、むしろ「観てる」状態から「意識する」状態に入るのが難しくて、「意識する」ってなんだっけ?とか思いました笑。ただこれも層を分けて、「観る」から「感覚する」を経由するようにすると「意識する」に入れて、とてもわかり易かったです。


というのが雑談からの流れでの気づきだったのですが、講座はまず「苦と快」というテーマから始まりました。

以前も、苦は自然か、快は自然か、というようなテーマがあって、ぼんやり頭の中には残っていたのですが、少し理解が深まったように思います。

本能的には、苦は悪とされ避けられる、快は良しとされ求められる、という傾向にあるが、一方で快ばかり求めていると怠けてしまう、苦を経なければ向上はない、というような、苦を求め、快を避ける考え方もある。

詰め込み教育かゆとり教育か、みたいなもんで、両方失敗してんじゃん?と。

というところで新たな視点、その「苦・快」は自然と生じたものなのかどうか。

「不自然な苦、人為的な苦」

「不自然な快、人為的な快」

これは環境操作、またその操作された環境に適応するための身体操作から生まれたもの。自然界にはない「快・苦」がある。

例えば正座でなぜ苦が生じるのか。じっとしてるだけなのに。殴られて痛いならわかる、殴って痛いならわかる、なぜ座っているだけで足が痛くなったりするのか。これは自然の苦なのか。

電車の座席に正座で座っていた昔のおばあちゃん。呉服屋の番台で一日中正座で帳簿をつけていたおかみさん。彼らは苦行をしていたのか。

彼らにとってはそれが「快」であった。それが私たちにとって「苦」であるのはなぜか。

古来からの武術にアクセスしようとする時、少なくとも正座が「快」である身体観にシンパシーを持てるかどうかというのは大きな分岐になりそうだ。

結局の所「快と苦」は同時に存在し、移ろうものである、快がなければ苦はなく、苦がなければ快はない。

そう、クヴァンツさんも言ってますね。

「決して切断されない快楽は、われわれの感受性を弱め衰弱させ、快楽をついには快楽でなくさせる。」

というところで正座、合掌での観法に入りました。

あらかじめたてた問いに対して身体に答えを聞く、という感じの流れで、この日の観法も一味違うものになりました。

私も毎日正座、合掌で観法はやってるのですが、やはりもっとじっくり時間をかけてやらなきゃだめだなと思いました。

正座も最初の頃は座った途端に「苦」がやってきてたのですが、1年位やってると、むしろ座った瞬間は気持ちいい感じで、ずっとそうしていたいと思うほどです。が実際は5分もやってると足が痺れ始めて「苦」が生じてきます。

このときもそんな感じで5分くらいで痺れ始めたのですが、不思議なことに観法が深くなっていくとその痺れが完全に消えました。

その後どれくらい経ったかわかりませんがまた「苦」が生じ始め、しかしそれはいつものような痺れではなく、熱くてジンジンした感じ?いつもはむしろ足が冷たくなっていく感じで痺れてくるのですが、ちょっとこれまでにない体感でした。

それでまあある程度の苦は生じるものの、耐えられないほどではなく、傍らに置いておける程度のものでした。

後でうかがったのですが、観法をどこから始めるか、どう進めるかは、決めているときもあれば決めてないときもあり、決めていても始めてみたらそうならないということもあるそうです。この日も最初左肘から入ったのはその時級にそうなったそうで、かなり即興的要素が強いようです。


その後この観法を使った稽古に入るのですが、最初にかなり深く観法をやっておくと、その後の稽古で身体を観るスピードと深さが全然違います。普段の自分ならあと5秒必要だな、とか思いながらやってました。

これ以降の内容はまだオープンにはなっていないようなのですが、間合いについて教わりました。間合いは距離とは違う、距離は同じでも間合いは違うという現象を体験しました。

左右観の違いみたいなことはずっとテーマになってるように思いますが、それがより複雑化して、発展していってるような印象を受けました。

今後も追っていきたいです。


あとは完全に蛇足ですが、着替えてるときに、あ、この人ヒモトレしてるんだな、とか、あれ、これマンサンダルじゃない?とかそういうものが普通になっているこの界隈素敵やなと思いました。

私も今マンサンダル注文中なので楽しみです。

ヒモトレについて https://www.kablabo.com/2016/06/post-236.html

マンサンダルについて https://www.mansandals.net/concept/