光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目

少し間が空いてしまいましたが、先日行ってきた光岡先生の講座を振り返っていきたいと思います。

以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI

なぜか私なかなか予定が合わなくて、せっかく会員になったのにいつも基礎、養生の講座にしか出られておりません(涙)

今回も養生のクラスでした。


中国文化圏における養生観

韓氏意拳における養生とはなにか、養生観とはつまり自然観であり集注観ということ。

自然とはなにか、何にどう集注するのかということがつまり養生を考えるということなのだと思います。

「両儀」、「四象」における陰陽から直立二足歩行である私たちの身体観を顧みていきます。

両儀の陰陽は四足歩行の陰陽、四象の陰陽は二足歩行の陰陽ということで、2が4で4が2というのがなんか面白いですよね。

ようするに四足のときは背中側が「陽」であったのに、二足になってお腹側が陽面化した。そのことによって不都合が生じている。

背中側を陽の面としたまま直立した状態というのを、後足歩行(姿勢)というそうで、四足歩行の動物がたまに後ろ足で立っている状態のことをいいます。

つまり四足と二足のちょうど間のような身体観、それが自然、それを求めていく、ということなのだと思います。

BUGAKUでやっていることも結局はやり方が違うだけで同じところを目指しているのだと思います。

五体投地も結局四足と二足の身体観を行ったり来たりしてるということで、同じ意味なのだそうです。

それで実際四足歩行を練習したのですが、私多分4回目くらいで、今回初めて、これが四足の身体観か、というのがわかった気がします。

いや、わかったというか、これまでわかってなかったんだなということがわかったというか。。

四足の姿勢から後足姿勢、二足の姿勢へと移っていく過程で、どの段階でお腹側が陽面化するか、その身体観を行ったり来たりすることで、四足と二足の違いが見えてきたように思います。

今回新たに教わったのは、四足歩行のとき、目の前か、見えないほど遠くが観える。二足歩行のときは何歩か先が観えるというもので、たしかに!と思ったのは、私毎日五体投地を3回だけやってるのですが、3回しかやってないにもかかわらず、今何回目だっけ?ってのがいつもわからなくなるんです。3が数えられない。それは四足の身体観が影響していたのかという、エウレカ体験でした。

それで最近高橋透先生にならったしゃがみ深呼吸(私が勝手にそう呼んでます)も明らかに四足の身体観だなと、しゃがんで深呼吸している時、あからさまに背中側に気がいきます。お腹側には全然いかない。

呼吸という観点は歌にもものすごく大きな影響を与えると思いますが、四足の呼吸観と、二足の呼吸観はまるで違います。これは習ったことではなく、やってみた私の経験ですが、四足のときは上下に呼吸してる感じ、二足のときは左右に呼吸してる感じです私の場合。

これも境目を探ってみると面白い、二足と四足の中間の呼吸が観えてくるでしょうか。


挙式

というのは結婚式のことではなくて、韓氏意拳の基本的な稽古法である站樁の一番最初の式です。

どういうものかというと、「立って、手を挙げる」というものです。

なんじゃそりゃあという感じがすると思いますが、やってみればわかります。「立って、手を挙げる」ということがいかに難しいかということが。

ちょっと私一生かかってもできないかもしれない。と今回思いました。

つまり韓氏意拳で言う「立って、手を挙げる」というのは、「自然に」立って手を挙げるということで、これがもう本当にできない。

今回初めて光岡先生に手をとってもらって、挙式を行うということができたのですが、ほんとに素晴らしい経験でした。

手を挙げようとしなければ手は挙がらないし、手を挙げようとすると手は挙がらないんです。

何言ってるかわかんないですよね笑

手を挙げよう、という「意」はないとあかんけど、それが「意識」に変わった瞬間に手が挙がらなくなる。つまり自然がどっかいっちゃう。作為になっちゃう。

「意のままに」というのがほんとその通りという感じで、意に任せられればいいんですけど、生活習慣によって、「意」が「意識」にすり替わってしまう。

頭で意識した途端に身体はバーチャルになり、自然を失う。

それで反対に、自然とはどういうことかというのを教わるため、光岡先生の手を取らせてもらって、挙式をやってもらいましたが、これがもう本当に凄い。

めちゃんこ凄い。

質感がまるで違う。

まるでトコロテンとナマコの和え物のような、違うあいのこのような食感、違う触感でした。

今回得たことで一番大きかったのはこれでした。

「こ、これが手を挙げるということか・・・」

という体験でしたね。

もう、ようするに私は今まで、立つことも、手を挙げることすらもできずに指揮を振り、歌を歌っていたということです。

挙式って韓氏意拳の基本のキのkみたいなことですから、せめてそのくらいはできるようになりたい、しかしできる気はしない。と思った回でした。

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

先週土曜日、久しぶりにBUGAKUの講座を受けてきました。

BUGAKU・韓氏意拳関連の記事はこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
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韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO

最近土日の予定が全然合わせられなくて、金曜夜の韓氏意拳の講座に行くことが多かったので、今回BUGAKUはほんと久しぶりでした。

それも昼間は仕事だったので、夜だけの参加になってしまって、BUGAKUの講座は午前午後の流れがあっての夜の講座なので、ついていけるかかなり不安でしたが、せめてその場の空気だけでも吸いに行こうという思いで参加しました。

結果本当に行ってよかった。

生きながらにして生きていることを思い出す営みが芸術だと思っているのですが、この講座はまさに芸術でした。

特に観法の時間がプレシャスすぎでした笑


身と骨

BUGAKUの基本として、四方の「からだ」というのがあります。からだという漢字は今の日本では「体」という字を使いますが、古くはもっとバリエーションがあったそうで、「軆・躰・體・骵」と書いたそうです。

この4つは自分の四方のそれぞれの経験を表したもので、右前を軆、左後を躰、左前を體、右後を骵といいます。

そんなわけで身か骨かというのはひとつのポイントになってるっぽい(よくわかってない)のですが、今回は骨に注目して、これを経験的身体として捉えられるかどうかというのをみていきました。

経験的身体というのもまた説明が大変難しいのですが、物理的身体、あるいは恣意的身体(頭で妄想した身体)とは違う、経験としての身体ということです。

その喩えとして、「鏡を見たことのない人間の身体性」というのが挙げられていて、これはわかりやすいと思います。客観的に外から見た自分、というのを知らない、主観とも違う、経験としての自分のからだ。

雲を掴むような話なのですが、やはり説明してわかるものではなく、経験してみないとわからないことだと思います。

あ、今更ですがいつもの前置きを。説明してもわからないことを私は今文字にしています。

目的は自分の経験の整理がメインで、そこから生まれた思考のメモ、そしてなんかわからんけど面白そうという人が引っかかってくれないかなあという淡い期待です。笑

このどうしようもない駄文から何かを得ようとは思わないでください。経験を伴わずに言葉から掴み取った解釈は、書き手の経験からは程遠いものになります。

多分、私たちは「古典」を徹底的に誤解したまま理解した気になっている。

書き手の経験的身体へのシンパシーなくして(つまり鏡を見たことのない人間への共感)、その人が言わんとすることは理解できない。

えー少し脱線したようなしてないような。

私たちは身体を物理、概念、恣意ではかることに慣れすぎている。

それをハッキングして経験の世界へと誘う稽古が必要だということです。

というわけで今回は骨に注目して観法を行いました。

骨を一本一本観ていく。多分自分の骨を見たことのある人はそう多くないだろうし、一本残らず全部見たという人は皆無でしょう。見えないものを観る、というのが稽古の大きなめあての一つだと思います。

この「観法」、私も朝のルーティンで立ちしゃがみの型とともに毎日やってますが、今回の光岡先生の観法はほんとに芸術でした。

観れば観るほど身体が喜んでいるような、自分の経験を回想しているような、祖先とつながるような、そんな時間でした。

あ、そう、経験というのは3種類あるんでした。個人の経験、種の経験、生命の経験。生命の経験はちょっと難しくてまだわからないけれど、種の経験はわかります。種として、先祖代々の経験です。前世の記憶というとオカルトっぽいですが、おばあちゃんの記憶というと途端に現実味を持ちますよね、私たちでも。

おばあちゃんの経験が私の中にあるんですね。そうした種としての経験の蓄積にアクセスするって感じでしょうか。

現代人にわかりやすく言うと、「本能」とか言われてるもんに近いかもしれません。近いだけで全然違うと思いますけど、あえてわかりやすく言えば。

そうした経験が骨の一本一本にある。一本の骨には一本の骨の世界がある、という言い方もされえていました。

コンクリの床に裸足で正座して結構長い間観法やってましたが、不思議と今回は脚が痛くなったり痺れがきれたりということがありませんでした。

これまでは結構跪座に時々しちゃったりしてごまかしてたんですけど、今回は大丈夫でしたね。うむ。日頃の稽古の成果かしらとちょっと嬉しかったです。


線の世界

前回BUGAKUに参加したときに、自分の後ろ側に細い棒を2本おいて、定位になったり不定位になったりということをやりましたが、それを更にわかりやすくした試し稽古をしました。

右足の下に縦に、左足の下に横にマスキングテープを貼ると、定位、逆にすると不定位になるというものです。

右は縦気、左は横気なのでこれはわかりやすい。

傾向に沿っているとき定位する、そうでないとき不定位になると。

そしてこれをテープなしでやる。右足を縦に切って左足を横に切る、という感じ。

「線の世界に入る」だとかなりちんぷんかんぷんでしたが、これはやってみたらわかるという感じで腑に落ちました。

この定位・不定位を瞬時に切り替えながら所作を行うと。そして流派によってこのバランスが異なる、カポエイラは不定位の割合が大きいし、日本や中国の武術は定位の割合が大きい。ただし、どっちかだけというなは有り得ない。それは武術にならない。

音楽の場合どうでしょうか。以前弦楽器や管楽器の楽器の持ち方が不定位だというようなことを書きましたが、おそらくこれも音楽の種類によるでしょうね。

ルネポリ歌うときは定位の割合が大きいだろうし、バッハを歌うときは不定位の割合が大きい。そして音楽でもどっちかだけということはないでしょうね。

バランスとスイッチングが肝になるんだと思います。


「気」は流れない

これも私ちゃんと理解できたわけではないですが、一般に気の流れとかなんとか言われてるのは一種の錯覚なのだそうです。

気は偏在し、動かない。空間のようなもの。空間は定位し、移動しない。

しかし動いて見えるのは感覚が動いているから。動いていない「気」を動いていると錯覚する。

うん。これ私の経験と結びついてないからわかんないわ。

しかし結構衝撃的なパンチラインですよね。気は流れない。

普通に言いますもんね、気が散る、気が向く、気が回る、気が進む、気を引く。なんかこれ気が動くもんだという前提ですよね全部。

今回改めて思ったのは、教えるってことは、経験のおすそ分けのようなもんだということ。知識の切り売りでは教えたことにならないんでしょうね。

自分の経験を、相手にも経験させる。

その上でその経験に結びついた理を伝える。

本読んだだけではわからないことがあるっていうのはそういうことなんだと思います。

身体が経験するかどうか。

実感のない言葉は響かないってのにも似てると思いますが。

あとあれだ、古東哲明先生の言葉で「ある思想をほんとうに理解するには、理解する側の変容が必要」というのがあるんですが、これもそういうことですね。

理解する側と身体経験を共有していないとなにもわからん。

というわけで、私と身体経験を共有してほしいので、皆さんも是非一緒に光岡先生の講座に行きましょう!!

城南治療室 院長 高橋透 『身体は語る』

土曜日の午前中、山形の施術家、高橋透先生の講習会に参加してきました。

高橋先生は韓氏意拳の教練でもあるかたで、この度縁あって参加させていただくことになりました。

内容がかなり専門的だったので細かいところまではよくわかりませんでしたが、かなり得るものもありました。

ここに書くのは私の曖昧な記憶と解読不能なメモをもとにした感想文です。文責は私にあることをお断りしておきます。


施術者にとって、これでよしとする基準はなんなのか、患者にとってのゴールとはなんなのか。

痛みがとることが目的なら痛み止めを打てばいい。

モルヒネを打つのが一番確実だ。患者はそれを求めているのだろうか。

痛みなく、思い通りに身体が動くというのはどういうことなのか。

それを高橋先生は「情報伝達がうまくいっているか」というように仰っていました。つまり身体からの情報が脳にうまく伝わっているか、脳からの情報が身体にうまく伝わっているか。

要するに身体の中でコミュニケーションがうまくとれているかどうかというのが問題になるのだと思います。

それを判断するのがまた難しく、筋力検査、可動域でそれを調べることをやっていましたが、素人にはとても真似できないので、そこは手を出さないことにします笑

施術者でも、この判断が正確にできる方は少ないのだそうです。無自覚的であれ、恣意的な検査をしてしまって、正確な結果が得られないとうことがよくあるそうです。

これ武術の世界で、先生の技を受ける弟子が、無自覚に効果を大きくみせてしまうという現象に似てます。

似てますが、施術者の場合は施術者本人がやってしまうということなんですね。

それをやられると施術を受けた側は、良くなってないのに良くなったと錯覚する。あるいは余計な刺激が与えられることによって前より悪くなるということさえあるのだそうです。


この日私は実験台をやらせていただけまして、ちょろっと声を出して、施術を受けて、またちょろっと声を出してビフォーアフターをみるということをやらせていただきました。

施術自体はもう全く何をやってるのかわからないちょちょっと30秒くらい触っておしまいというもので、え?なにそれ?そんだけ?って感じなのですが、たしかに身体が変わってるんですよね。

面白かったのは、発声体感は変わってないのに音色が変わっていたというところです。だいたいなんかこう変化があるときって、声の出し心地が変わるのが普通なんですけど、普段から自分の身体の変化にかなり繊細になろうと努力している私からしても、体感の違いを感じられませんでした。

けど、声が変わってる。

これがどういうことなのか、またしばらく考えてみます。

セルフケアも教わってきたので、また朝のルーティーンが長くなります笑

新しい身体になるということはOSのアップデートにちょっと似てて、ほうほうなんか良さそう、きっといいんだろう、使いこなすには時間かかるけど、て感じなんですよね。

しばらく動かしてみて、じっくりまた観ていこうと思います。


今回なにより驚いたのは、本編とは関係ないんですけど、なぜか机の上にずっと口琴、それも山崎口琴が置いてあったことです。

講座で登場するのかと思いきや最後まで触れられなかったので、講座後に、「これ山崎口琴ですよね?」って聞いてみました。

するとなんと高橋先生のところに山崎さんが時々治療にいらっしゃるそうで、お知り合いなのだそうです。

そういえば山崎さんも山形だった。

なんと世間の狭いことか。

なんだか不思議な縁を感じた講習会でした。

またチャンスがあれば参加したいと思います。

講習会の詳細はこちらからご覧いただけます→http://tcacademy.jp/


第2回プレイバックサリクス

https://is.gd/SHnjTq

12月26日(土)20時より
Salicus KammerchorのYouTubeチャンネルにてライブ配信
https://youtube.com/channel/UCeWlQtnOnETy6Q2uZUVq4jA

出演:上田朝子 金成佳枝 櫻井元希 富本泰成

いよいよ今週末です。

出演者の紹介とコメントをSNSで始めました。

よろしければ御覧ください。

毎日の稽古|モーニングルーティン

毎日の稽古|モーニングルーティン

昨年12月から毎朝形体訓練等の稽古をやってます。

やらなかったのは多分2回くらい。忘れてました笑

でもやらなかったら翌日の体が違うので、朝起きた時に「おや」って思うんですよね。

最初は形体訓練と站樁と塵手水くらいだったのですが、3月くらいから、立ちしゃがみの型、8月からは五体投地とだんだんメニューが増えてきて、だいたい今は朝45分くらいやってます。

効果はかなり目に見えていて、2週間位でまず腰が太くなりました。その後は足が太くなっていって、最近気づいたのは、シャツの肩幅が合わなくなってきました笑

しかし面白いことに体重は全く変わってないんですよね。変わったのは、体重の増減がむしろなくなったということで。

以前は少し気を抜くと3キロ位すぐ痩せちゃって、ひどいときは5キロ位減ってたのですが、最近は特に何もしなくても、減ることはなくなりました。

毎朝稽古していると、同じことをやってるはずなんですが、手触りが毎回違います。

そのたびに新しい発見があって、こっちのほうが滞りがない、こっちのほうが力感が少ない、今日は体重を感じない、なぜ今までこれに気づかなかったのだろう、と毎日が新鮮です。

同じことをやる、ということで日々の自分の身体の違いを知ることができています。


今やってるメニューを整理すると。。。

①しゃがみの姿勢で観法

②立ちしゃがみの型

③五体投地

④立ち方の確認

⑤形体訓練

⑥塵手水の礼

⑦しゃがみ稽古

⑧站樁

⑨ジャンプしながら天井を押しながら声出すやつ(名前あるのか?)

⑩エイホー

ちょうど10個なのか。そういえば最近シラットとかシュワイジャオの型とかやってないな。

やろう。


それぞれ詳しい説明は省きます。興味ある方は光岡先生のBUGAKU講座に行きましょう。

あるいは私の講座レポートに大体書いてますかね。

でも具体的なやり方とかは書いてないから、やはり直接教わったほうがいいですね。

ちょっとだけ解説すると、

「①しゃがみの姿勢で観法」「②立ちしゃがみの型」は連続で行っていて、観法とは身体を観るということ、立ちしゃがみの型は光岡先生のオリジナルの方で、立つ、しゃがむ、伸び上がる、の3つの形を身体の傾向に沿って行います。

「③五体投地」は立つ、座る、寝るという3つの形を連続的に行うものです。

「④立ち方の確認」は韓氏意拳講座で基本中の基本ということで取り上げられている、まず立つってどういうことかという確認です。

「⑤形体訓練」は韓氏意拳の基本的な訓練で、動きの中で身体の最大有効範囲を確認していくというものです。

「⑥塵手水の礼」は相撲の礼法で、肚を作って腰を入れるためのものです。

「⑦しゃがみ稽古」は、身体の傾向に沿いながら立ちしゃがみをスムーズに、わりとスピーディーに行うものです。

「⑧站樁」これも韓氏意拳の代表的な稽古で、「立つ」稽古です。

「⑨ジャンプしながら天井を押しながら声出すやつ(名前あるのか?)」これは徳久さんが紹介していた、マイク・チャンという人のエクササイズの一つで、合唱団の声を起こすのに驚くほど効果があったので、自分の稽古にも取り入れてます。

「⑩エイホー」は合気道のウォーミングアップの一つで、声を出しながら身体を動かす、四肢の連動と声の連動を感じられる非常に有効な稽古です。

これら全て、エレウシスの練習に取り入れてますが、毎回全部やるとほとんどそれだけで練習時間終わってしまうので、毎回ちょっとずつやってます。

しかしぜひともおすすめするのは、合唱団の練習のときだけでなく、毎日少しずつでも続けるということです。

ちょっと大袈裟な言い方になりますが、人生変わりますよ。世界の見え方、自分の観え方、他人との関わり方、生活の中での身体性、全部変わります。

あと、毎日同じ自分でいられなくなります。

日々の変化を感じられます。成長といってもいい。

生きて在るってことが、ちょっとだけわかりますよ。


一昨日くらいから、Facebookの自分のページで、「声の神秘に魅せられて」とダサいタイトルをつけて、声に関する連載企画をはじめました。

目的はただただ、私がやべえと思うことを、みんなにもやべえって言ってほしいというただそれだけです。

自分のページでやる分には迷惑かからんだろうということではじめました。

ので、「やべえ」って思ったら遠慮なくコメントで「やべえ」って言ってください。

私が満足します笑

https://www.facebook.com/GenkiSakurai1013

光岡英稔韓氏意拳講座|4回目

先日、また光岡先生の講座に行ってきました。

なかなか土日に都合がつかず最近伺えておらず枯渇気味だったので、久々に吸収できてよかったです。

今回も気づいた点をまとめていきたいと思います。

過去の記事はこちら↓
BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU7回目https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座3回目https://is.gd/rDRgMX

改めて、ここに書いてあることは、自分の記憶の定着、学びの記録のために書いているという面がかなり大きいです。

全ての文章の最後に「*個人の感想です」を付け加えてお読みください。

でもこの記事を見て、なんか面白そう、私も行ってみようかな、と思ってもらえたら嬉しいです。

光岡先生って「同時代に生きてることが奇跡」レベルの、後の時代の人から見れば伝説の人だと思うので、ひと目会っておくに越したことはない、というかただそれだけで子の世代に自慢できるくらいの人だと思います。

いや、すんごい薄っぺらい言い方ですけど、ここでやってることって真に近すぎて常人には理解できないので、入り口を広くするのが難しいんですよね。

喩えを使って表現することが難しい。

つまりは比類ないということで、喩えようもないぐらいスゲーってことで許してもらえないでしょうか笑


立つ稽古以前の稽古

今回受講した韓氏意拳初級講習会は、韓氏意拳と言いながら、韓氏意拳に導入するための、韓氏意拳以前の内容という感じでした。

站樁も、形体訓練にも至らない韓氏意拳の講座なんて想像もできないですよね。

喩えるなら、一回も声出さない合唱講座みたいなもんです。普通苦情が来そうなもんですが笑、これが成り立ってしまうどころか熟練の受講者をも唸らせる(というのも10年以上韓氏意拳をやられてる方が、これを初学の時にうかがいたかったと仰っていたので)内容なんですよね。

韓氏意拳の基本の稽古である「站樁」というのは簡単にいうと「立つ稽古」なんですけど、このただ「立つ」というある意味超基本中の基本といえる稽古に入るための「基本中の基本中の基本」というのがあるんですよね。

つまり、站樁という立つ稽古を生み出した人間のベースにあった身体観とは何かを知りそれを経験するというのがその内容になろうかと思います。

わかりやすいのは「背もたれを使ったことのない人間」の身体観です。王向斉も韓星橋も、背もたれを使って座っているのを見たことがないそうです。

そういう人間が立っているベースラインを知らずに、彼らの編み出した基本の稽古に入ることはできない、ということだと思います。

これはもちろん韓氏意拳のに限らず、歌でもなんでもそうだと思います。

教える側の「当たり前、言うまでもないこと」に教わる側が至っていない場合、何を教えても効果がない、ということはよくあります。

まずはそこに至るまでの道筋を教えて下さいという感じなのですが、自分の当たり前を教えるのって難しいんですよね。

「どうやってるんですか?」

「うーん普通にやったらこうなるからなあ」

「いや、なりません先生・・・」

ここで止まってしまうこと多いですよね。


座るように

立つ稽古である站樁を教える時に、代々言われるポイントとして「座!」(座るように)というのがあります。

中国は椅子文化なので、この場合座るというのは地面にではなく椅子に座るようにということです。

ということで座るというのがどういうことなのか、ということが「立つ」ことを知るためのきっかけになるのだと思います。

座っている状態というのは足ではなくお尻に体重が乗っているということで、この体重を足の方に移動させていかなければ立つことはできない。

講座では具体的に、座っている状態から立つためにはどういう条件が必要なのか、足の角度、立つための順序、どこから立てて、どこまでは立てないのか、を丁寧に見ていきます。

また同様に、四足歩行から二足歩行に進化していった過程で身体観がどう変化していって、どういう過程で、どういう条件で立つということが成立したのかということを見ていきます。


四足歩行の経験

生物が四足歩行を始めたのが3億5000万年前、人間が二足歩行を始めたのが400万年前だそうなので、まだ「立つ」ということが不慣れなのもしょうがない、四足歩行から二足歩行を捉えることで、「立つ」ということがどういうことなのか経験しましょう、というようなことだと思います。

四足歩行における四肢の連動を、「交差歩行」「同側歩行」「前後歩行」から経験し、椅子から立ち上がる際の四肢の連動と照らし合わせていきます。

四足歩行の3つのタイプはいずれも前足から動きが始まります。これを経験したことが私にとっては大きかったです。

立ち上がる時、座る時、いずれも前足から動きが始まるようにすると、四肢がうまく連動したようでした。

二足歩行の場合、前足と関係なく後ろ足だけで立ったり座ったりを認識しがちですが、やはり四肢が連動した時に初めて安定して立つ、座るという動作ができる、ということが経験できました。

特に前後歩行、カエルやウサギのような歩行形態、立ち座りの練習にはかなり効果的でした。結構わかりやすく、ダイレクトに関係を体感することができました。

試し稽古として、胸骨に外圧をかけながら立ち座りをするというのもやっていただきまして、なかなか一人ではこの稽古はできないので、普段の自分の稽古の成果を感じることもできましたし、また課題を明確にできました。

やはりこの試し稽古、定期的にやらないと日々の稽古が形骸化する恐れがありますね。実際役に立つのか、効き目があるのか、一人稽古ではだんだんわからなくなってきてしまう。

自分の稽古の再確認という意味でもやはり定期的に通いたいなあという思いが強くなりました。

幸い韓氏意拳の講座は東京では光岡先生の講座以外にも複数講座を受講できます。

私は今まで光岡先生の講座しか受けたことなかったのですが、どうしても土日の講座にはなかなか行けないので、他の先生の講座にも参加させていただきたいと思いました。

講座は以下のサイトからご覧いただけます。

http://hsyqjapan.dreamblog.jp/

皆様もよろしければ是非!


お知らせ

さて、先月サリクスのカンタータ公演が終わり、最近は来年の企画の準備をやっています。

第6回定期の日程も決まりました。(チラシができたらまた公式で発表します)

https://www.salicuskammerchor.com/concert

そして7月から温めていた企画がオープンになりました。

5ヶ月も温めてしまいました。温めすぎたかもしれません笑

リモートワークショップ×バーチャルクワイヤ
〈Ensemble Salicusと歌うビクトリアのミサ〉

7月に行ったタリスの40声のモテットの企画からの継続で、よりレッスンの比重を大きくした企画です。

タリスのときはレッスンは希望者のみ、30分を1回だったのですが、今回は原則全員2回受けてもらいます。よりじっくり作品に取り組める企画になっていると思います。

また募集枠も減らしてますので、お申込みはぜひお早めに。

詳細はこちら→https://www.salicuskammerchor.com/workshop

また来年2月くらいに、結構大きな発表ができそうです。今後の活動を卜う企画、というかシステム?なので、またこれからじっくり準備していきます。

どうぞご期待ください。