Grim – Gorgoroth

私の職業は主に1750年以前のキリスト教声楽作品を演奏することなのですけど、このブログにいろいろ書いてる通り、他にも好きな音楽がたくさんあります。

ホーメイ、テノーレス、ヨーデル、インド音楽、ビートボックスなどがその中心ですが、中でも最も理解されにくいのが、グラインドコアとブラックメタルでしょう。

ジャンルの名前で書きましたが、どうも最近はっきりしてきたのは、私はこれらの「ジャンル」が好きなわけではないということです。

私はグラインドコアが好きというよりは、そういうジャンルに分類されているCarcassというバンドの1-3rdアルバムが好きなのであり、ブラックメタルが好きというよりは、そういうジャンルに分類されているGorgorothというバンドのUnder the sign of hellというアルバムが好きなのだということが、最近わかってきました。

グラインドコアなんか、Carcass以外に一個もバンド知りません。

で最近ブラックメタルの歴史を記したごっつい分厚い本をたまたま雨宿りした紀伊國屋で買いまして、端から端まで読んで、登場するバンド片っ端から聴きましたが、いいと思うバンド、アルバム、曲はひとつもありませんでした。

いや、そこそこいいなと思うものはあるんですけど、2回以上聴きたいかというとそういうのはなかったんです。

それではっきりしました。別にブラックメタルが好きなわけじゃない。

では一体Gorgorothの、それもUnder the sign of hellというアルバムが、他と何が違うのか。

ドラムなんです。これを叩いてる人、それが、このブログのタイトル、Grimという人です。

聴いていただければ一瞬でわかります。こんなスネアの音は聴いたことがないと、

スネアがなかったからトタンで代用した、そんなような音です。

錆びたノコギリみたいなギターやネズミの断末魔みたいなヴォーカルも素晴らしいですが、それはあくまで普通のブラックメタルの様式の域を出ないかなと思います。

ただこのスネアの音だけは、多分これまでブラックメタルのアルバム100枚以上聞きましたがこれっきりです。

これっきりというのは、Grimは彼は1999年に30歳で自殺してしまって、生前公式にリリースされたアルバムはこれ1枚なのだそうです。

参照元:https://metal.fandom.com/wiki/Erik_%22Grim%22_Br%C3%B8dreskift

2017年になってÖrthというバンドの音源がリリースされて、youtubeに上がっていますが、コメント欄のBuy CDのリンクは死んでました。

それでそのアルバムもこんなスネアの音ではないんですよね。

だからもう本当に、Grimのあのスネアが聞けるのはGorgorothのUnder the sign of hellだけなんです。

それで例のブラックメタルの歴史の本にも特にそのことには触れていないし、誰もこのスネアの音どうなってんねんというのを見たことがないのが本当に不思議で、こんな凄い音出してる人ひとりもいないのになぜそれに誰も触れないのだろう。

ということで、Grimが死んじゃったので、もう自分でやるしかないなと思って、ドラムをはじめました。

といってもまだ1回スタジオ入っただけですが。

ジョスカンフェスが終わったらやろうと思っていたことの一つです。

こう見えてめっちゃ楽しかったです。

右手は叩くところ間違えてますし、左手は笑っちゃうくらい暴れてます。Grimまでの道は遠い。

光岡英稔 韓氏意拳講座|7回目

またまた光岡先生の講座に参加してきました。

今回は韓氏意拳の講座です。

午前中仕事だったので、午後・夕方の2コマを受講しました。

このレポートもBUGAKUの方と合わせて16回目になります。なんだかもういよいよ内容がコアになっていって、いっそう文字で表すだけではなにがなんだかわからない感じになっていますが、自分の記憶の定着のためと、講座を経ての自分の気づきのメモをしていこうと思います。

ほんと光岡先生の講座は経験してみないとわからないことばかりなので、皆様ぜひこんなブログを読んでないで講座の申込みをしてください笑。

『BUGAKU』講習会のHP
http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html

韓氏意拳光岡教室のHP
https://hsyqjapan.dreama.jp/40/87/


【これまでのレポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
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BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5


四足歩行

韓氏意拳の講座と言いながら、光岡先生の講座では韓氏意拳の体系に入る以前の基礎についてをかなりしっかりやります。

站樁も形体訓練も全くやらないこともザラです。

今回の午後の講座でも、中国文化圏や、韓氏意拳の基本的な考え方や用語などは登場しますが、実際実技でやるのは「四足で歩く、二足で立つ」ということです。

二足で立てなければ武術もクソもないし、二足で立つための前提として四足の身体観を稽古する、という感じです。

今回あらためて感じたのは、「意識して〜する」ということがいかに我々の脳味噌に「良いこと」として刷り込まれているかということで、私が参加した初級講座のほとんどで、受講生のだれかしらが「〜を意識してやるんですね」などと発言します。

そのたびに光岡先生は、「私は講座の中で『意識して〜する』ということを一度も言ったことがありません」とおっしゃるのですが、それを聞いたあとでさえ「いし・・・じゃなくて、えー観る」と口から勝手に出てくる受講生がたくさんいます。

韓氏意拳では「不用力・不費脳」という考え方があり、これは力を用いない、脳を費やさない、ということなのですが、「意識して〜する」というのは脳を費やしていることになります。

脳は身体の1%という言い方もされますが、脳は身体にとってそんなに大きな働きはできないし、できると錯覚してしまうことが身体全体の機能を阻害するんですね。

しかしこれは本当に難しい。見た目ではわからない。けど観た目ではわかります。

韓氏意拳の教練の内田先生に「櫻井さんいつものこの辺にいるんですけど」と胸のあたりを示されたのですが、たしかに私デフォルトの状態だとそのあたりにいて、そこから降りていくのに努力感がいります。

それでもまだマシになってきた方で、10年前はどこにもいなかったです。私が。私の身体に。

脳にいればまだ良いほうなんでしょうけど、脳にいるというよりは脳の中でイメージしたバーチャルな私しか存在してなかったですね。もう、身体は死んだも同然でした。実際その頃は死のう死のうと努力していましたね。

希死念慮というやつは、身体に自分がいないというところから始まるんじゃないかな。と今ふと思いましたが、あながち妄想でもなさそうだな。

というわけで、観る人が観ればどこを観てるかはわかるのですが、見た目ではわかりません。

なので本当に観れてるかどうかは、試し稽古でチェックすることになります。

「意識すると身体はバラバラになる」「観るとまとまる」これは本人にとっては区別がつきにくいがために、一生懸命逆効果になることを稽古している可能性すらあります。

だから一人稽古の中にも試し稽古を取り入れられないかと思うのですが、なかなか難しいですね。

今のところ、たまに妻に「ちょっとここ押して」とか頼んでます。

四足で今回とても印象深かったのは、まず世話人の某I毛さんの同足歩行がめちゃめちゃ軽やかだったということで、もう歩行というか走行でしたね。見事でした。

私も家が狭いからなあとか言い訳してないで公園行って稽古しよう。と思いまして翌日公演で裸足に素手でやってみたのですが、公演の土って海から持ってきたんですかね?貝殻とか混じったかなり鋭利な砂利で、めっちゃ痛かったです笑。けど室内でやってるのとも違う身体観が得られたので、懲りずに続けたいと思います。

もう一つ印象深かったのは、前足の親指問題です。四足の哺乳類って歩くとき親指が地面に着いてないんですよね。手首のあたりにある。だから我々が四足で歩くときも親指を少し浮かせるようにすると歩きやすい。

っていうのはやってみればわかります。全然違います。でも四足で歩いたことのない人には絶対わからないです。

で、私が思ったのは、私らはこれを光岡先生から教わるからわかる。しかし光岡先生は誰から教わったわけではなく、自分の身体を通してそれを発見する。発見というか、それが当たり前、当然このほうがやりやすいじゃんねえって身体が知ってる、みたいな感じなんですよね。

この感性と観性、これがもう決定的に私たちとは違う。

私たちは教わったことに縛られて自分で何かを見つけ出すという感性や観性を失っている。教わったことの中で稽古することしか考えてない。

でももともとこの能力は備わっているはずなんですよね。蓋をしているだけで。何かふとこうな気がする、とか思っても、根拠のないことだと思ってすぐ捨ててしまう。感覚的なこと、野生のカンみたいなものを、頼りないものと思ってしまう。そういう思考構造になってしまっている。

それで自ら感性や観性を削ぎ落としていって、それがもっとひどくなるとマジで感覚すらなくなっていく。(味や匂いがしなくなったりね笑)

私も剣道部やってたころ痛みを無視する技を身につけてしまって、そのうち心の痛みも無視するようになって、一番ひどいときは、アイロンが腕に当たってるのに「うん、熱いね、で?」て脳で考えてる間に大火傷するという有様でした。そのくらい身体がバラバラだった。

今は流石にそこまでではないけど、そう、なんていうか、反射的に身体が動くかどうかってほんと重要な目安になると思います。身体が何かを感じて動き出すまでに思考や意識が介入しない状態というか。

感覚的なこととか、なんかそんな気がする、というのを捨てないで、掘り下げていけるかどうか、そういう稽古も必要なんだろうなと思います。


站樁は一つじゃない

夕方のコマはもうそれはそれは衝撃的な内容でした。

意拳の系譜、王向斉、韓星橋、韓星垣、韓競辰の4人には、4通りの站樁がある。

なんですとおお。でしたね私にとっては。

でどう違うかというところを今回は王向斉と韓競辰の站樁の違いということで学んでいきました。

ここからの展開がもう凄すぎて、我々の四足の先祖と二足の先輩の身体観をインストールせよって感じなのですが、あまりにもハイレベルすぎて文章にならないので、諦めます笑

二足の先輩って何かっていうと恐竜なんですよねえ。

「経験」というのは個としての経験、種としての経験、生命としての経験があって、我々脳が覚えているようなことは個としての経験のそのまたほんの一部なのである。

というのは理解していたのですが、まさか直接の祖先でない恐竜の経験までは思考が至ってなかったっす。ただ生命としての経験という意味では恐竜の経験も我々は持っていると。

この話は某I毛さんが、王向斉の身体観で韓競辰の站樁を稽古していたところ体調が悪くなった、というところから発展したそうなのですが、実は私も黙ってましたがこの1・2ヶ月同じことをしておりまして、なんか最近仙骨痛いなあとか思ってたんですよね・・・・笑

それでこの講座を受けてから毎朝の站樁のやり方を変えたら、3日くらいで跡形もなく痛みが消えました笑

いやしかしこれは良いことなんです。間違ったものには間違った結果があるということが確かめられたわけで、間違うことができるというというのも実力なのです( •̀∀•́ ) ✧ドヤ━━

站樁が意味を為していないと、間違った結果も起こらないわけですからね。

I毛さんがどうもおかしいということに気づいて、光岡先生にお話されたのでしょうけど、それが稽古に結びついたものであると気づいた観性が素晴らしいと思います。私はなんか仙骨痛いなーと思ってましたが、それと稽古は全く結びついてなかったので。

おかしいことにおかしいと気づけるのもまた観性ですよね。

それが、これとこれの食い合わせが悪いからやと気づけるのもまた凄いですが。

もうとにかく我々の社会は良くも悪くも刺激が多すぎ強すぎで、観性や感性に蓋をしていないと息もできないんす。

快も不快も感じにくくしていないと爆発してしまう。そういえば鈍感力という本があったなあ昔。

鈍くなることは適応なんですよね。そうしないとしんどくって生きていけない。

けどそれが何を生んできたのか、そろそろ学んでもいい頃では、と思います。


ということで今回は特に、講座のレポートというよりは、そこからこんなことを考えてましたよという愚にもつかない私の感想になってしまいましたが、そもそも講座で起きていることを文字にするのは不可能だし、下手に説明しても絶対に誤解される自信があるので、このくらいで勘弁していただければと思います。

とにかく今回の講座も非常に重要な気づきがたくさんあって、あたしゃあ鼻血が出そうなほど興奮してるよってことが伝わったらなと思います。


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光岡英稔 BUGAKU講座|10回目

昨日も行ってきましたBUGAKUの講座。気づけば最近このブログの半分くらいは光岡先生の講座関係な気がしています。私は何屋で、なんのためにこのブログを書いているのでしょうか。お気を確かに。

今に始まったことではないですね笑

やっぱり演奏会自体は減ってる傾向にあって、ブログに書くお知らせが減ってきているということもあります。

かといってなんにもないかといえばそんなこともないので、もうちょいまめにお知らせブログもかかねばならんなあと思っているところであります。

とりあえず今できるお知らせは、Salicus Kammerchorの演奏動画が公開されましたよーということ

詳細→https://is.gd/wh41Eq

と、Salicus Kammerchorの演奏会情報チェックしてねーということ

https://www.salicuskammerchor.com/concert

です。

演奏動画無料なのでぜひ多くの方に聴いていただきたいです。1時間ほどの動画です。


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もうBUGAKU10回目なんですね。3年前の11月に初参加だったようなので、それを思うとまだ10回目というべきかもしれません。

今回も私が経験したことをレポートしていきたいと思います。このレポートは①自分の経験したことの定着のため、②こういうことに興味を持ってくれる人が増えたらいいなあ、③こういうことを踏まえて演奏活動、指導をしてますよという宣伝のためにやっています。


武学の基礎の基礎

今回は基礎のコースから3コマ続けて受講できました。講座は武学の基礎の基礎についてのお話から。基礎の基礎と言っても、一生かけてもこれを本当に修めるということができるのか疑問、という内容です。果てしない。

それは「身体観の層位」で、私達が身体と思っているのは、身体のほんの一部に過ぎない、身体の層位の深いところにアクセスしていくことで、身体が本領を発揮する、というようなことです。

身体観の層位については以前のレポートでも書いてますので、ここでは5つの層位を羅列するだけにとどめておきます。

①思惟的身体

②物理的身体

③感覚体

④客体

⑤気之体

この5つの層位の違いを経験するために、さまざまな試し稽古を行います。

物理的に条件を同じにした上で、何をどうすると、何が起こるのか。

物理的な思考に慣れている人にとっては魔法にしか見えません。

しかしテクノロジーを知らない人にとってテクノロジーが魔法にしか見えないように、物理的思考に慣れている人にとって魔法にしか見えないことにも、物理とは違う「理」があり、それを経験した者にとっては当たり前のこととなります。

その理を経験して、稽古すれば、一見魔法にしか見えないことも実践できるようになります。

左右の気の違いだけでも、最初は驚いたし、にわかには信じられなかったです。しかし自分の身体に起こっていることなので、受け入れざるを得ません。これはもうやってみた人にしかわからない。

今回は武術として求められる身体観と、一定のルールに基づいた中で行われる競技の中では役に立つ考え方と、そういったことにも踏み込みつつ稽古していきました。

現代人はまず身体を概念化してしまっているので、左右の定位不定位が崩れ、両弱化している。だから両方を均等に筋トレしようという発想になる。両弱化した者同士では、筋トレしたほうが勝つし、その競技の中で必要な一方向の動き、のようなものに対しては筋肉を鍛えることで強くなる。

ただそれを知っていないと、ルール無用の世界においては通用しない。全く予測不可能な360°の力に対して対処できるか、舞楽で扱う強さというのはそういうこと。

またオリンピックで話題になった空手の型についても言及がありました。

個人的な思いをここに書くとあまりにもな文章になってしまったのでやめておきます笑

見栄えを良くするためには無駄な動きを加えなければならない。競技としては動きが見えなきゃだめだけど、そもそも武術としては見えちゃだめ。競技としてダメな型の方が本来の型の意味としては効果がある。

というような話でした。これは個人的なアレではなく講座の中でのお話です。

あーオブラートに包むの大変だなあああああ笑

しかしまあ音楽に置き換えますと、抽象的な意味における大きな「音楽」というのはルール無用変幻自在の本当に自由なものだと思いますが、それを人間というフィルターに通したあとのいわゆる我々の目に見え、耳が聞く「音楽」の中にはある程度のルールがありますよね。

ある民族とか、文化とか、ジャンルとか、コミュニティとか、あるいは個人の単位でも、これが良くてこれはダメっていう人間の美に対する価値観のフィルターがある。

その価値観ってやつも流動的なもので、例えば私オペラ歌手の恒常的ビブラートに対するアレルギーがあったんですけど、インド音楽を学んで、ガマックという装飾を教わったあとでそれを聴くと、ああ上手なガマックだなあって聞けるようになったんですよね笑

そんなもんだとは思うのですが、わたくし思うに、そのルールのもとで音楽をやっていたとしても、例えばバッハのカンタータをやります、というのは少なくともバッハの書いた楽譜というルールに従わなければならないわけですが、そのルールの中でしか通用しない身体観で闘うのと、ルール無用の音楽を前提とした身体観で闘うのは全く別のことだと思うのです。

バッハという個人のフィルターを通して私達の前に現れた「音楽」を見る、というより、バッハが観ていた抽象的な意味における大きな「音楽」をバッハを通して観る、というのが私の音楽観なんですよねえ。

作曲家、演奏家は音楽を濾して見える形にするフィルターなんだと思います。

脱線しましたが、そういうことも踏まえつつ私は武学をやってるのだなあと今思いました。


型・式・礼法の理解

型の意味というのは、その体系や流派に必要な身体性の獲得、相撲の塵手水の礼は肚や腰を作って筋肉によらずとも安定した身体性を身につける。

これは自然法則の発見で、こうやってこうすると、こうなる、というのを経験から抽出したものなのだそうです。

これちょっと私達からするとなかなか想像できないようなことなんですけど、光岡先生はそれもやっていて、そうしてできたのが立ちしゃがみの型なんですよね。

これはバージョンアップが続いていて、今回習ったものは前回までに習ったものとまた変わっていました。

新しい型を習うのってワクワクします。新たな身体性を獲得するということは、新たな自分を知るということですよね。今までの自分とは違う自分になる。たーのしい。

今回はこの新しい立ちしゃがみの型と、塵手水の礼を客体でやって、それぞれの効果を比べるということもやりました。

客体で型をやるのは過去にもやったのですが、その時はなかなかうまくいかなかったんです。がしかし今回はうまくいきました。

試し稽古のお相手がガチ中のガチの某Yさんだったので余計嬉しかったです。

また今回は木刀を使った型も教わって、これも朝のルーティンに加えました。家のものを壊さないように気をつけながら続けたいと思います笑

あと今回衝撃的だったのは、光岡先生のカリスティック(2本の棒、ほんとにわりとただの棒)を使ったデモンストレーションで、なんていうんでしょう蜘蛛のように地を這いながらビュンビュンカリスティックを振っていくのがマジで見えなくて、戦慄しました。

帰りに参加者の某空手の先生ともお話させていただいたのですが、あれと渡り合うためにはどうすればいいのか、それが今後の大きな課題になりそうです。

いや、いいものを見ました。

今回も文字ばっかりの記事になってしまいましたが、読んでくださった皆様誠にありがとうございます。

感想や訂正などありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

レクチャーコンサート「ザムエル・シャイト『カンツィオネス・サクレ Cantiones sacrae』をめぐって

先月今月と収録の仕事が重なりまして、カペラの聖母ミサは今月23日のベルギーでの音楽祭で流されます。

また国立音楽大学の教材の録音というのもあって、これもなかなか公開されないのがもったいないほどの出来になりました。

そしてもう一つがシャイトのレクチャーコンサートです。

これは去年の2月にやる予定だったもので、本番直前に、コロナ感染拡大によって延期になりました。

1年半後に、配信という形ではありますが実現できて、ほっとしております。

オルガニストの米沢陽子さんにお声がけいただいたのが2017年の夏で、翌2018年の3月に、日本オルガン研究会の例会でレクチャーコンサートをさせていただきました。

今回の企画は同じ研究の中間発表で、最終発表は来年2月に企画されています。

そこでもSalicus Kammerchorとして演奏させていただく予定です。


今回の企画ではシャイトの作品を12曲、そしてドレスラーの曲も1曲演奏しました。

これだけシャイトの作品を、しかも二重合唱のものばっかり演奏するという機会もこれまでなかったので、なかなか歌いごたえがありました。

いつもサリクスは各時代の作品を少しずつ演奏するというプログラムを組んでいるので、こうして一人の作曲家に集中して取り組むという機会はとても貴重です。

ドイツ三大S(シュッツ、シャイン、シャイト)の中でも声楽曲としては最も演奏機会の少ないのがシャイトだと思いますが、なかなかどうして超個性的な力作ばかりでした。

この3人、ほぼ同じ時代、同じ地域で活動していて、お互いに影響を与え合っていたに違いないのですが、これだけ3人とも際立った特徴を示しているのは本当に奇跡的なことだと思います。

全然似てないです。3人とも。際立ってる。

サリクスでは今年からシュッツをメインプログラムとして取り上げていますが、この三大Sの個性を比較するような演奏会もいずれやってみたいと思います。


今回レクチャーコンサートということで、私たちの演奏だけではなく、米沢さんと、共同研究者である大角欣矢先生のレクチャー動画も同時にアップされています。

演奏とともに、是非ご覧いただければと思います。

◇第1部(レクチャー)

ザムエル・シャイト『カンツィオネス・サクレ Cantiones sacrae』をめぐって(講演:米沢陽子)
https://youtu.be/6Sa10REtMto

ガルス・ドレスラーとザムエル・シャイトの《神よ、私を裁き Richte mich, Gott》について(講演:大角欣矢)
https://youtu.be/skbhlgBKfY8

◇第2部(演奏の部) 
演奏:サリクス・カンマーコア
https://youtu.be/SJLcDQ1Trgw


今年はありがたいことにSalicus Kammerchorに演奏機会を沢山いただいております。

今日それらの情報をサリクスのHPにまとめましたので、チェックしていただければと思います。

選曲とメンバー集めと日程調整に奔走する日々ですが、与えられたチャンスを活かしてまたレベルアップしていきたいと思っておりますのでどうぞ応援よろしくお願いいたします。

https://www.salicuskammerchor.com/concert

光岡英稔 韓氏意拳講座|6回目

先週土曜日、久しぶりに韓氏意拳の講座に行ってきました。私去年会員になってたんですが、全然都合つかなくて、会員用の講座を受けられたのは今回が初めてでした。

午前が非会員でも参加できる初級講座、午後が会員向けの初級講座でした。

今回も自分のメモのため、またこういう世界があるよっていう紹介のため、レポートを書いていこうと思います。

あの、ほんと私が参加してるくらいなので、ハードルはかなり低いですよ。どなたでも参加できます。

ここでしか学べない、ほんとうに大切なことを学べるので、よかったら一緒に受講しませんか。


以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
光岡英稔 BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit


韓氏意拳という体系

午前の講座はいつものように、中国文化圏でどのようにして韓氏意拳が生まれ、これがどんなバックボーンを持っているのかについての講義から始まりました。

そしてこの天才が作った体系を私たち普通の人が受容するためには何が必要なのか。

まずは根本のコンセプトに対する理解、そしてこれを生んだ人々の身体観へのアプローチ。

ある思想を理解するためには、理解する側の変容が必要であると古東哲明先生が言っていますが、それを身体ごとやるという感じです。これを作った人の身体観へのシンパシーなしにこの体系を身に着けることはできません。

また中国文化圏における身体観を問う前に、人間、人類、ヒトとしての身体観を問うことも必要になります。

それもまた中国文化の考え方を引用しながら、人間が四足歩行から二足歩行へと推移していった過程でどのような変化があったかをみていきます。

そこで実際四足歩行の身体観とはなんぞやということを実際四つ足で歩いてみることによって経験していくのですが、この稽古は物凄く効果があるんですけど場所を選びますよねえ。

普段からやりたいとは思うのですが、家の中は狭いし外でやると通報されそうだし、どうしたもんかと思っております。

四足歩行には交差歩行、同側歩行、前後歩行とあるのですが、この順番に安定性が減って動力が増します。

つまり交差歩行は安定しているけど動力は小さく、前後歩行は不安定だけれど動力が大きい。

やってみて感じたのは、前後歩行(カエルとかウサギのような感じ)だと、1歩で止まるのが凄く難しい。1歩進むと2歩3歩勝手に進んじゃう。1歩で止まるのはなかなか努力がいりました。

印象的だったのは同側歩行にバリエーションが多いということ。受講者の同側歩行を見ていると、歩行形態は同じなのに、歩幅とか、前後どちらの足が先に浮くか、どちらの足が先に着くかなど、見た目に違いがはっきり出ていてとても面白かったです。それぞれが持っている集注観が違うからかと思いましたが、加速しようとしているか、減速しようとしているかによっても変わるそうです。

あと今回もあえて間違ってみるという稽古をやったのですが、これがもう笑っちゃいました。

老子の教えで「万物は陰を負いて陽を抱き 冲気を持って和を為す」というのがありまして、その通りに四つ足で歩いた時と、その教えに背いて陰を抱いて陽を負いた時の違いをみるのですが、もう老子先生ごめんなさい二度と教えには背きませんって感じでした。手も足も出ないとはこのことですな。


「二足で立つ・歩く」とは

午後のクラスの前に、みんなでお弁当をご一緒したのですが、そこでの雑談も楽しかったなあ。基本私が光岡先生を質問攻めにしてたんですが笑。

光岡先生のハワイ時代のエピソードはもう漫画みたいで面白いです。あんまりここに書いていいような内容ではなかったような気がするので、気になる方は個別にお問い合わせください笑

午後は韓氏意拳の前身(?)となった心意拳、形意拳について。

心と意の違いとは。

私の印象では、なんとなく「意」の方がとらえどころがあるというか、具体性を帯びている感じがして、「心」のほうは、もう茫漠としてわからんなあという感じがしてました。心ってなんなんでしょうね。

意拳は意味が分かるけど、心拳だとちょっと私にとってはよくわからない。と思って検索したら心拳というのもあるんですね。失礼しました。。。

形意拳の名前となっている「形」はまさにかたち、構造のことを指します。こちらはもうこの上なく明確ですね。

ただ、どういう形が自然で、どういう形が不自然なのか、を問う時に、それが中国武術の中での自然なのか、アジアや、アフリカ、ヨーロッパだとどうなのか、人間、人類としてどうなのか。

というところで、また人類としての自然な「立つ形」についての稽古に入りました。

膝で足先が隠れるまで腰を落として、その時の脛の角度と同じ角度になるまで上半身を前傾していくというのがその形で、これは以前にもやったことがあったし、出来てると思っていたのですが、どうやら上半身の角度が甘かったらしく、また上半身の角度をつけようとすると腰の位置が下がりすぎてしまうということになっていました。

それをこう光岡先生がこっちこっちって手で矯正してくださるのですが、センセーアタシの腰はそっちには曲がりません!!って感じで超きつかったです。

安定した形というのは必ずしも楽ではない。少なくとも我々にとっては。

稽古を積んでいくとこの形が楽になっていくのだろうと、これは正座の稽古でも同じですね。

我々にとっては「苦」だけれど、100年さかのぼればこの形は「楽」であったのだと、電車の座席に正座で座っていたおばあちゃんが教えてくれます。

武術の場合、安定して立つということは前提にはなりますが実際には動けなければなりません。(けど立ててもいないのに動けるわけなんかないとも言えると思います)

四つ足の歩行形態の時にも確認しましたが、運動性は安定性と反比例します。動こうとすると不安定を作らなければならない。安定した立ち方ができても、動いたときに不安定になってしまうなら武術としてはマズい。動けるけど安定しているという矛盾をいかにクリアするか。

ということで二つの方法を学びました。安定した形のまま、站椿の結束式の時のように傾斜をつける。そうすると安定した形のまま勝手に身体が前に進みます。

もう一つは一瞬不安定を作ってすぐ安定に戻るというやり方。これはかなり難しかったです。

安定した形を作るときは、上記の老子の教えの通り、陽の面を観るのですが、動き出そうとするその瞬間に、ほんの一瞬陰の面を観る。その不安定を利用して動き出し、瞬時にまた陽の面に戻る。

相当観法の稽古を積まないとこのスピードではできません。

私の場合ですが、陰の面から陽の面に戻るのが遅くてうまくいきませんでした。

ここまでで午後の講座が終わりました。

午前中から午後にかけて四つ足から二足に進化して、立って数歩歩く、ということを学びました。

これらは韓氏意拳の体系そのものではないですが、そこに足を踏み入れるための基本、二足歩行の人間として根底にあるものです。

そこに中国文化圏の考え方でアプローチしていくというのが、光岡先生の韓氏意拳初級講座なのだと思います。

午前午後を費やして、ついにこの日は挙式(站椿の最初)も前擺(形体訓練の最初)もやりませんでした。

けど足腰ボロボロになりました。笑

立って歩いただけですよ!立って歩くだけでこんなことになりますかね!

いやほんと。早く立って歩けるようになりたい。

かといって四つ足で歩けるわけでもないから赤ん坊以下だな笑

月曜から5日連続カペラの稽古なんですが、普通は座って歌うんですが、例の立ち方の稽古をしつつ歌っています。おかげさまでなぜか筋肉痛はなく、足がボロボロのままです笑

立つこともできないのに歌なんか歌えるわけがないだろうが。という感じですが、精進します。。

カペラは今ベルギーの音楽祭に出品する演奏動画(録画は来週)を製作するためにリハやってます。一般公開はされるのだろうか、、よくわかりません笑

あと再来週はSalicus Kammerchorでも演奏動画を撮ります。こちらは立教大学の米沢陽子さんの研究発表のための動画で、こちらはいずれ大学のHPで公開されるはずです。

こういう状況で、お客さんを入れてのコンサートよりこうした録画の機会が増えてきましたね。

まだまだ全然慣れないですが、ひとつひとつ乗り越えていきたいです。

「引きこもるんだよ、身体に、足の輪郭に、やることは山のようにある!(外的要素に)反応している暇はない!」