古楽的見地から分析するトゥヴァ民謡

昨日お風呂でぼーっと考えていたことを書きます。

タイトルほど大げさなことではありません。

今コエダイr合唱団でХөөкүй ноянという多分トゥヴァ民謡を練習しています。

音源は以下から聞くことができます。

https://mp3mn.com/?song=02+%D1%85%D0%BE%D0%BE%D0%BA%D1%83%D0%B9+%D0%BD%D0%BE%D1%8F%D0%BD

この曲自体は去年からやってるのですが、この音源聴いたのは先週の練習会ででした。

それでこの曲のありさまを初めて知ったのですが、ちょっと思ってたのと違ったんですね。

そもそもこの曲アカペラでユニゾンで歌ってるものなんですね。勝手にイギルとかドシュプルール楽器付きだと思ってました。

それでこの曲3番までと4番からの様子が全然違う。それはテキストが3番まではなんだか牧歌的なのほほんとしたテキストなのに、4番から急に政治的な内容になって、二重支配辛い的な内容になってます。

何か事情があって4番5番の歌詞が付け加えられたんでしょうか。初めから子の構成だったとは私には思えません。

それでこの内容に合わせて、最初はどちらかというと息もれ系の柔らかヴォイスから、3番の終わりのところのオーハヤン、エーハヤンという掛け声みたいとこから喉詰め発声になるんですね。

でも実は声の音色は徐々に変わっていっていて、3番の頭ちょっと過ぎたあたりから、(多分)3人のうちの真ん中の1人が喉詰めで歌っています。

それでオーハヤン、エーハヤンのところで左の人が喉詰めになって、4番の頭からみんな喉詰めになっています。

多分打合せでは3番の頭から一人喉詰めになる予定だったんでしょう。途中で目配せがあったのか、あわてて喉詰めに変えてるっぽいです。

最後、5番ですが、真ん中の人ひょっとして歌ってないかしら?最後のところ、左の人はどういうわけか慌てて音をブチって切って歌いやめてしまうんですが(最後のnの子音も言ってない)、そのとき残っている声は右の人だけの気がする。

ちょっと後でモニター用ヘッドフォンで確かめてみようかな。

この3人が時々違う歌詞歌ったりしてるのは単に間違えたんでしょうか。多分そうだと思います。

それでもこのテイクをCDにしちゃうっていうのがまたトゥヴァっぽいというかなんというか。

しかしながら旋律に関しては大体見解が一致しているようです。

しかし大きく違うところがあります。

ラーラードレミドレーレミレミド
ラードレミドミーミソミレド
ミーミソミーレドレーレミレミド
ラードレミドレーレミレミド

左の人はほぼ一貫してこんな感じで歌っています。

しかし右の人はほぼこんな感じです。

ラーラードレミドレーレミレード
ラードレミドミーミソミレド
ミーミソミーレドレーレミレード
ラードレミドレーレミレード

1・3・4行目の終わり方が右の人の方がシンプルです。

他の箇所も左の人の方が若干装飾的だったりしているので、この終わり方も装飾の一つなのかもしれないし、まあちょっとした旋律のバリエーションなのでしょう。

それでいままでコエダイでは右の人のシンプルなやり方で歌っていたのですが、左の人の終わり方もいいなあと思いました。

レからドに直接行くのではなく、ミに寄り道してからドに行く感じ。

あれ。これなんかあれに似てるな。あれあれ。

ランディーニ終止

はい。やっと古楽ターム出てきました。

ランディーニ終止とは導音のティから直接ドに行くのではなく、ラに寄り道してからドに行く終止の方法です。ドシーラドーみたいな感じです。

普通
ランディーニ終止

Хөөкүй ноянの場合は上から終止して、ランディーニ終止の場合は下から終止しますが、1個隣の音に寄り道するという点では同じです。

右の人
左の人

もう一つ。

これ、リクエッシェンスじゃね?っていう気づきもありまして。

くだんの終止の箇所、最初の歌詞はカンドゥルでありまして、左の人はミに寄り道する際そのnの子音だけミに寄り道してるんです。

これはグレゴリオ聖歌のネウマの一つ、エピフォヌスに他ならないではあーりませんか。

これは上昇2音のネウマ「ペス」の縮小系リクエッシェンスとも言われ、ここの箇所の場合、カ(レ)ア(ミ)ン(ミ)ドゥル(ド)となっていればペスなのですが、ミの音はンだけです。リクエッシェンスではこのように子音だけに一つの音が与えられることがあります。

日本人にとっては「ん」に音があてられることもあるので余計この例外的処置が説明しづらいのですけど、西洋の歌の場合、音があてられるのは母音なんです。

子音だけに音が与えられるってことがほぼなくて、グレゴリオ聖歌にはそれが普通にあるのが面白いところなのです。

しかもそれをわざわざ他のネウマと書き分けて記す神経の細かさよってところが現代人からするとため息ものなのです。

てことで、この左の人は反転(?)ランディーニ終止をエピフォヌスでやっているのだなあと、風呂に入りながら考えていました。

おしまい。

第2回リモートアンサリ|終演

第2回リモートアンサリ|終演

昨日、第2回 “Remote” Ensemble Salicus Live 〈40声のモテット大発表スペシャル!〉が終演いたしました。

ご視聴くださいました皆様、誠にありがとうございました。

そしてタリスのモテットにご参加くださいました皆様、本当にご苦労様でした。

やってみないとわからないんですが、宅録ってほんと大変なんですよね。

何が大変って自分の下手さに正面から向き合わざるを得ないというところが一番大きいかと思うのですが、そこを乗り越えなければ得られないものがあります。そしてそういったある種のリスクを冒してまで、「合唱したい」という皆さんの熱量を感じました。

30分レッスンを希望者の方は受けれるようにしていて、50名の方のレッスンをしたのですが、ほとんど全員が、近ごろ歌ってないので自分の声が今どうなってるかわからない、という状況でした。

はじめましての方もかなり多かったのが印象的で、一気に50人分の合唱人のレッスンをするという機会も初めてだったので、私自身大変学びが大きかったです。

この学びを後日「合唱発声の一般的傾向と対策」というブログにしたためようと思います。

昨日の配信、やはりタリスのインパクトが強かったようで、前半にお聞かせした2曲の印象が薄くなってしまったようです。

6人でのグレゴリオ聖歌、パレストリーナ、アンコールのジョヴァンニ・ガブリエーリのモテットの音源を販売しています。

どれも本当にちからいっぱい作り上げた作品ですので、こちらもどうぞよろしくお願いいたします。(Tシャツはおかげさまで売れ行き好調でございます)

ここで得た収益をもとに、次回以降の企画の発展を考えています。

次回は8人でお届けできればと思っています。メンバーの録音環境を経費で賄わなければならないため、先立つものが必要です。どうぞよろしくお願いいたします。

同時視聴者数が400人を超えていて本当に驚きました。前回確か200人くらいだったはずなので。

演奏会でも400人は入らないのに(笑)

アーカイブは1週間限定で公開しますので、見逃した方はぜひご覧ください。

https://youtu.be/REparwM6FQU

投げ銭も常時承っております。

ofuseの返信、欠かさずやってまいりますのでどうぞよろしくお願いいたします。(アカウント登録をされないと、返信はできないようです)

https://ofuse.me/users/salicuskammerchor


そして来週月曜日はカペラがカテドラルから無観客ライブを配信します。

今日もこれからリハーサルです。

こういう形の配信は初めてなので、とてもワクワクしています。

こちらもどうぞ応援よろしくお願いいたします。

https://www.facebook.com/events/743369583082081/

空前絶後のライブ配信

タリスのモテット、編集しています。

ようやく形が見えてきました。

本当に凄い作業でした。多分私が今までやった仕事の中で一番きつかった。

卒論よりも修論よりも大変でした。

参加者の録音をパソコン上で編集していくという作業、音程もタイミングもなんなら音色でさえ編集できるのですが、全部手作業なんですよね。結局耳で聞きながら一つ一つ修正していく作業。

AIにやらせれば似たようなことはできるんだろうけど、でも同じようにはできないと思うのは、価値観を数値化できないということと、やってるうちに価値観が変わっていくし、偶然起こった事故とかをうまく利用してみたり、時々見落としたり、そういうことが結局人間らしいものを作っていくのではないかと思います。

それで思い出すのは先日藤井聡太が棋聖戦だったっけ?AIが6億手読んだところで突如として最善手として弾きだす31銀という手を20分で指したという話。

これすごいのは藤井聡太は20分で6億手読んだわけじゃないってとこです。

AIが6億手読まなければわからないことが藤井聡太は6億手読まなくてもわかるんです。

直感精読という加藤一二三九段が揮毫に書かれる言葉がありまして、これただの直感でもない。こういう手もありそうだなって浮かんだ手を読んでいくわけですが、AIのようにしらみつぶしに読んでいくわけではなく、直感で浮かんだ手を中心に読んでいくんです。

でまあ何が言いたいかというと、録音の編集もこれに似ているなということです。

聴いて、直感的にああこうしたほうがいいなってことを中心に検討していくんですね。

直感だけでもないし、何から何まで修正してしまうわけでわない。

非常に総合力の問われる作業です。

まあ一番問われるのは精神力と忍耐と根気なんですけどね(笑)

7月9日どうぞお楽しみに。

きっとすごいものができます。

第2回 “Remote” Ensemble Salicus Live
〈40声のモテット大発表スペシャル!〉

日時:7月9日(木)20時-21時

曲目:
●グレゴリオ聖歌「主の昇天の祝日のミサ固有唱」より奉納唱「ガリラヤの人々よ」
●ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ「教皇マルチェルスのミサ」より「サンクトゥス」
●トマス・タリス「あなた以外に希望を持ちません」

出演:Ensemble Salicus

鏑木綾 渡辺研一郎 佐藤拓 富本泰成 櫻井元希 谷本喜基

Salicus KammerchorのYou Tubeチャンネルでのライブ配信です。
この機会にぜひチャンネル登録を!!
https://www.youtube.com/channel/UCeWlQtnOnETy6Q2uZUVq4jA


今日はカテドラルに行ってました。

7月13日、カペラがカテドラルで無観客ライブ配信を行います。

今日はそのリハだったのですが、いつものようにクワイヤブックで歌えるはずもなく、ソシアルなディス箪笥を保ったまま歌います。

今まで考えたこともなかったような新しい演奏スタイル。

楽しみです。

ところで今回演奏するミサ〈パンジェ・リングワ〉はもととなった聖歌の影響で全曲にわたってミ・ファが強調されるミサです。

今日ふとこのミ・ファというシラブル、実によくできているなあと思いました。

階名で出てくるシ(ティ)や半音上昇の変化音もこのミに倣ってディとかフィのように母音がイ母音なんですね。

ヘクサコルドが使われていた時代はこの6音の音階組織ドレミファソラの中に半音は1か所しかなく、しかも母音がイなのがミだけなので、非常にわかりやすいんですね。

ミは固い音、ファは柔らかい音というような言い方をしますが、これはもうシラブルそのものに現れている。

前舌狭母音の緊張感のある倍音構成の母音と鼻音の組み合わせ。

そこからfaという広母音と無声摩擦子音という母音自体が薄くなりやすい子音を組み合わせる完ぺきさ。

ミの緊張感というのは、蝉の鳴き声を思い浮かべていただくとわかりやすいかと思います。

ミーンミンミンミンミン、ミーンミンミンミンミン、ミーンミンミンミンミン

もう勘弁してくれえって思いますよね。

これが、

ミーンミンミンミンふぁ~~~

とかだったらなんと見事な緊張と緩和!とか思うのでしょうか。

ほんとこのシラブルを考えた人凄い。天才。

というミファの印象的なミサです。

皆様ぜひ配信ご覧になってくださいね。

https://www.facebook.com/events/743369583082081/

ダヴィデの声明・如来のイムヌス|終演

先週土曜日、叔母との企画が終演しました。

統計開始から最速だった東京の桜の開花宣言の日に雪が降るというわけのわからぬ天候の中、ご来場くださいました皆様、誠にありがとうございました。

いろいろな事情を鑑みたうえで、この企画は私たち叔母甥にしかできない企画だったのではないかと思います。

グレゴリオ聖歌風に新作とか、声明風に新作とか、まともな神経ではできないです。そんなことができるのは、アホかイカれてるかどっちかで、私も叔母も後者です。

今回プログラムには歌詞しか載せなかったし、MCも最小限だったので、少し制作の過程をここに記しておこうと思います。


前半は詩編23をいろいろな言語で、いろいろなスタイルで。

同じテキストで違う作曲家やスタイルでというのはサリクスでもおなじみですが、それのひどいやつと思っていただければいいかなと思います。

1.”Dominus regit me” グレゴリオ聖歌(ラテン語)
2.モロッコ系の朗唱(ヘブライ語)
3.「主は私の羊飼い」グレゴリオ聖歌風に新作(日本語)
4.声明風に新作(中国語)
5.「主はわれらの牧者」高田三郎(日本語)
6.声明風に新作(中古日本語)

1と3と5が私が担当した部分で、1は普通にグレゴリオ聖歌。受難節第1主日の聖体拝領唱です。

3は昨年出版された聖書協会共同訳聖書の詩編23編のテキストをそのまま使って、日本語でグレゴリオ聖歌風に作曲したらどうなるかというのをやってみました。

旋律定型を織り交ぜつつ、日本語の抑揚や内容の象徴なんかも考えながら作りました。しかも10世紀頃に書かれた古ネウマも用いながら作ったので、特殊ネウマのコブシみたいのものも結構沢山用いました。意外とそのあたり日本語との相性よかったんじゃないかなと思っています。

5は現行カトリックでも用いられている高田三郎の典礼聖歌からとりました。

2.4.6が叔母の担当した演目で、2はユダヤ教の実際の典礼で使われているような話だったので(曖昧でごめんなさい)、前半プログラムのうち新作は3.4.6の3曲で、半分新作だったということになります。


後半は如来唄と中唄の流れにそって、それをいろんなふうに歌うということをやりました。

1.「如来妙」 声明(漢文)
2.「色」 グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)
3.「講式 」声明(中古日本語)+ドローン(ラテン語)
4.「身」 グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)+声明風ドローン(漢文)
5.「世」 声明(漢文)
6.「間無当等」(中唄)声明(漢文)+グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)+詩編唱(ラテン語)

1は普通に声明、2は経典をラテン語訳してそれにグレゴリオ聖歌風に作曲しました。

この作業がなかなか大変で、固有名詞をどうするかとか、仏教的な言い回しをラテン語に直すのにキリスト教の考え方に置き換えてみたりとか、なかなかの超意訳をしております。笑

例えば
哀愍覆護我 令法種増長 此世及後生 願我常摂受
という文言は日本語だと、

なにとぞ、哀愍のお心を垂れたもうて、私をお譲りくださって、仏法の(優れた美徳を発育させる)種子を増長させ、現世と未来世とにかけて、願わくばみ仏が常に(私の願いを)救いとって(摂受)くださいますように。
となります。

これを
主よ、私を哀れんでください。
日毎私の心を励まし、
いつも私に耳を傾け、お救いください、
主なる神よ、とこしえに。

と書き換え、ラテン語にしました。

Miserere mei, Domine,
adjuva me cotidie,
inclina aurem tuam ad me, et salvum me,
Deus meus, in aeternum.

言い回しをキリスト教風にね。しましたね。

3は声明にラテン語のシラブルでドローンをつけました。ドローンとは言いつつも割と頻繁に音を変えていましたので、どちらかというと長音価の定旋律に声明が乗ってるという感じに聞こえたかもしれません。

4はグレゴリオ聖歌も声明も両方新作で、まず私が2でやったのと同じようにテキストを作って、ドローンがつけやすいようにDをfinalisとする旋法でグレゴリオ聖歌風に新作し、その音源を送って、それに合わせて声明風ドローンをつけてもらうという方法をとりました。

しかし出来上がったのはドローンとは言えないくらい普通に声明みたいで(少なくとも私にはそう聞こえました)、グレゴリオ聖歌と声明の対等関係のポリフォニーのような感じになりました。

5はまた普通に声明で、6は声明+グレゴリオ聖歌風新作+詩編唱ということで、如来をマリアにみたて、聖母の晩課で唱えらえれる詩編を用い、グレゴリオ聖歌風新作と交互に歌うAntiphona風にしました。

もとの声明が、音を長く伸ばす部分と、動きのある部分が交互に現れるような構成をしていたので、声明が長く伸ばしているところに動きのあるAntiphonaを、声明に動きのある部分には同じ音で唱える詩編をあてるという方法をとりました。

詩編唱は旋法によってそれぞれ定型を持っているのですが、その時の声明の動きとマッチする旋法を選びました。

その結果音域の高い旋法と低い旋法がたまたま交互に現れるようなことになり、声明の上で唱えたり、下で唱えたりと、声部交差が頻繁に起こって、そういった意味でも変化に富んだものになったのではないかと思います。

同じシラブルを何度も何度も、ずーーっと引き延ばして歌う声明に対して、次から次へとテキストを畳みかけるような詩編唱が対比され、トランス×トランスのような状態になったのではないかと思います。


今回の企画、破戒的な企画だったとは思います。

しかし鳴り響く音を聴くと、それほど不快ではなく、むしろ意外と心地よい感じになったのではないかと思います。

しかしその内容はそれぞれの業界から袋叩きにあうようなヒリヒリとした部分をはらんでいて、しかしそれでいて、もっとずっとずっと深いところでは響きあう、通底するものがあるよって、そういう3層構造になったのではないかと思っています。

二つの宗教のモノフォニーが歌いかわし、交わることで、祈るということについて、思いを馳せる機会になったのであればうれしく思います。


聴きに来てくれた家族、スタッフ、そしてコエダイ関係のみなさんと。
左4人はカルグラしてるので不思議な表情と口の形になっております。

そしてこの4人、実に15年ぶりの集結でした。

15年前、私が18歳のとき、叔母が広島大学入学のお祝いに東京に呼んでくれて、この4人でTOKYO DEATH FEST2005という日本初のブルータルデスメタルのフェストに行きました。

この時が徳久さんと私の初対面。ライブ後渋谷の中華屋で中華食べながら親父と徳久さんが話していて、徳久さんの発言をきっかけにできたのが、ポリゴノーラです。

ポリゴノーラについてはこちら↓
https://www.oto-circle.jp/music

というわけで、もう私が徳久さんと出会ってから15年も経つんですね。恐ろしい。

実は昨日も徳久さん出演のライブを見に行ったのですが、もうこの記事的には長すぎるので次の記事に譲ることにします。

徳久さんとのワークショップは来週末です。

声に興味のある人全員にイチオシのワークショップですので、ぜひお申し込みください。

詳細コチラ↓
https://note.com/voiz/n/nb8d37d4d8fba


昨年7月から活動開始したアマチュア合唱団、Chor EleusisのFacebookページとTwitterアカウントを作りました。

皆様フォロー、いいね!シェア、リツイートじゃんじゃんお願いします!!

光岡英稔BUGAKU講座|5回目

日曜日、仕事がコロナの影響でとんだので、BUGAKUの講座に凄く久しぶりに3コマフルで参加してきました。

コロナさまさま(不謹慎)

朝昼夕と3コマで約8時間。終わりの頃は若干朦朧としていましたが、堪能しました。

理解が深まったところと、謎が深まったところがありましたが笑、それだけ奥深く、また光岡先生自身も日々進化されているので、ついていくのも必死です。

BUGAKU・韓氏意拳関連の記事はこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1


実体と客体/定位と不定位

午前のコマはおおむねこれまで教わった内容が多かったですが、初めての参加者が少なかったので、より踏み込んだ内容もありました。

物理的身体(実体)と経験的身体(客体)

客体には感覚体と気之体があり、前者は感じることができるが後者はほとんど感じることができない。

それを感じやすくするために左右観を使ったの試し稽古が有効である。

今回改めて確認できたのは、定位と不定位は良し悪しではなく、ただそういう傾向があるということで、場合によって定位の方がいい場合、不定位の方がいい場合がある。

定位の方が安定していていいようだが、速く動く場合は不定位の方がいい。

型を使って体の傾向(気)の様々な側面を「経験」することで、その経験を折に応じて引き出せるようにする。

という感じかなと思いました。

形同実異という言葉が韓氏意拳にはありまして、形は同じでも、中身は異なっているということなんですが、これまさに型稽古をするとよくわかります。同じ形を作っても、型を通してその形に至った場合と、型を通さずにただその形を作っただけでは中身が違うんです(試し稽古の中では定位、不定位という形で顕在化します)。

これを、同じスタート地点から同じゴールに至ったとしても、道が違えばそこで得た経験は違うでしょう。というたとえで説明されていて、とてもしっくりきました。


胸の経験が消える

そして面白かったのは、最近してる人が多いマスクに関して。

これも試し稽古で、正座で向かい合って胸を押すのですが、マスクをしていないときと、マスクをしているときで全然変わっちゃうんです。

マスクをしていないと結構耐えられるんですが、マスクをしてるとコロッと後ろに転がっちゃう。

これを光岡先生は「胸の経験が消える」という風に表現されていました。

それで胸の経験が消えると排他的になりやすく、他者と同調することが難しくなるんですって。

これは私も経験があって、昔学生の頃、喉の予防として年中真夏でも、家の中でさえずっとマスクをして過ごしていたことがあるんです。

程度の差はあれ、声楽家の方であればそういうことをしていた時期があったり、今そうしていたり、そういう人を見たことがあると思います。

で私の場合その時確かに精神状態おかしかったと思います。

これ薬もそうなんですが、私の場合薬を飲めば飲むほど悪化して、薬の種類も量も増えていくってことがあって、1回の診察で薬代が1万円超えるようになって、それでアホらしくなってやめました。

そしたら薬飲んでるときより元気になったんですね。

何事も塩梅が大事ということで。

薬やマスクが悪いというわけではなくて、それを扱うのは自分なので、それで調子悪いのは自分の問題なんですよね。

花粉症もそうで、私花粉症というかハウスダストアレルギーって言われてて、年中朝晩薬飲んでたんです。

飲み薬だけじゃなくて点鼻薬点眼薬常に持ち歩いて、しょっちゅう使ってました。

その時は薬の副作用で寝ている時以外ずっと眠かったです。

まあそれはなかなか信じてもらえない方法で治ったのですけど、治ってからも年に2回くらいでるときがあって、そういうときは薬を飲みます。漢方ですけど。

で治ってから1回だけ点鼻をやったことがあるんですけど、そしたらもう鼻も目も痛くて痛くて、そのあととんでもない眠気がでて立ってられないくらいになってしまったので、それ以来1回も使ってません。

話がそれましたが、今マスクをしている人が増えているということは、人が排他的になりやすくなってるぞってそう思って過ごしたほうがいいかもってことでして。

しかしこれ本人は絶対気づかないと思うんです。そんなことないって全員が言うと思う。

でもね、胸を押されてみればわかる。一瞬でわかる。わかるしかない。

マスクをしてるときとしてないときで、体感は何も変わらない。何も感じない。
胸が消えるなんて「普通」は絶対に気づかない。

胸を触られてもわからない。押されて初めて分かるんです。あれ?さっきと違う。

そこが怖いところというか、面白いところというか、説明不能であるところというか。体験してみないと絶対わからないけど、体験してみると絶対わかります。

頭ではわからない。わからなくていい。身体が経験する。


三元分立

午後はより応用編で、時が経てば経つほどわけわからなくなっていきます。笑

もう笑うしかありまへーんでした去年までは私も。

実体と客体(感覚体と気之体)の分離と揃い。

これを三元分立(さんげんぶんりゅう)といいます。

ああああうまく説明ができない。というかまだ理解できてない。

実体・感覚体・気之体の3つを使い分けるというか、観わけるというか、そういうことだと思います。

3ついっぺんには難しいので、まずは実体と感覚体の二元分立から。

これも試し稽古をやりますが、二人組で、片方が片手で押すのを片方が両手で受け止めます。

普通に力で押そうとすると、運動方向に向かって感覚も向かっていく、つまり運動方向と感覚方向が一致するのですが、これを逆にする。運動方向の反対側に感覚方向を持っていくと、ただ押した時とは違う力が出る。

力っていうとちょっと違うかも。さっきより押せる。がより近いと思います。力が出てるという感じはしません。力入れてる実感なく押せる。という感じ。

と思ったらメモに書いてあった。「所作が成立する」なのだそうです。めちゃめちゃぴったりした言葉だ。

ほんと言葉のつかいわけと扱いが見事なんですよね。光岡先生って。

はい。感覚方向と運動方向。ここまではできる。できる気がする!

今度は三元分立、これが難しい。

まず何をやったらいいのかよくわからん(爆)

手順としては、押す方だけでなく受ける方も感覚方向を運動方向の逆に持っていって拮抗させる。

その上で押す方が気之体で押す、ということなんですが、どうやるのかよくわからん。。。

実体と感覚体と気之体が、頭の集中と胸の集注と肚の集注に微妙に置き換えられているような雰囲気がしてましたが、これは正確じゃないんだろうな。


目付

続いて今度は武具を使って、「物・事・空間」に対する集注(この言い方であっているのだろうか)をみていきます。

二人が木刀を持って向かい合って、片方が様々に目付を変えていき、身体の変化をみます。

自分の木刀を見たとき、相手の木刀を見たとき、相手を見たとき、相手の後ろやまわりの空間をみたとき。

「見る」と書いたのは実際に目で見るということで、この場合、空間を見たときがもっとも定位します。

続いて胸の集注で自分の木刀、相手の木刀、相手、空間を観ていきます。

この場合は目で見るというより、胸で観る、という感じです。

基本的に、物をみると不定位になり、空間をみると定位します。

今度は肚の集注で自分の木刀、相手の木刀、相手、空間を観ます。

この場合が面白くて、相手を観ると不定位になるんですよね(遠くにいくにしたがって不定位になる)。不思議。そして空間を観ると最も定位する。


以下朦朧

このあたりでもう体も頭もヘトヘトになってきて、朦朧としてきてまとまったことが書けない笑

メモをちょっとまとめるくらいにしておこう。

閉眼で空間を見ると定位する。閉眼でキョロキョロすると不定位。

意識:つまり頭で想像する→空想
感覚経験・気:つまり身体で想像する→連想

経験には自分が覚えていない経験、また祖先の経験も含まれる。
自分が覚えている経験など全体の1%未満。
意識を使っちゃだめというわけではない。使ってもいいけど、それをきっかけにして自分が覚えていない経験を引き出す。

集注は深くなると短く、速くなる。
型は身体観を教えてくれる。あるいは経験させてくれる。
深い集注によってその身体観・経験を引き出す。

客体には自己と他者の分離がない(?!)
空間と空間みたいな感じ、とのことです。

“ぼくがぼくであるとき、ぼくはきみだ
ぼくたちは、からみあったまま別れている”

ってパウル・ツェランの詩を思い出しました。

時々、自分と世界の境界線が溶けてって、つながっていくようなヤバイ感覚になって、とんでもなく平和な気持ちになることがあるんですが、そんな感じなのかなーー。わかんないなーー。果てしないなーー。稽古が足りない。

客体で起こっていることが実際に起こる。
これは最もオカルトっぽいセクションだったのですが、立ちしゃがみの型をやった後に、客体で立ちしゃがみの方をやる、というもの。
これも試し稽古で、実体は棒立ちなのだけど、客体は型を通ってしゃがむ。
そうすると重心低く押してくる相手に対して押し返す事ができる(客体は相手より重心が低いから)というものでした。
でこれは更に、客体だけ階下に降りる(!?)ということまでできるそうで、それも実践されていました。
スゴイオカルトッポイ。

もうほんと朦朧っぷりが現れているのが私のメモの汚さ。

マジで自分でも読めない。


このレポートの目的

そういうわけで、今回もレポートを書きましたが、このレポートには3つの目的があります。

1.自分の学習の定着のため

2.こういう学びを踏まえて実践や指導を行っていますよという宣伝

3.こういう身体観を取り入れて音楽実践に結びつけていく研究を一緒にやる仲間を見つけたい。

はい。3がからっきしです。興味持って一緒に検討できる音楽家カモン。

こういうことに興味を持ってるのは私の先生の徳久ウィリアムさんくらいです。

ということで、まさにこういう内容のワークショップをやるということで、徳久さんにお誘いいただきました。


古武術×ボイトレワークショップ&カラオケ交流会!

渡りに船。武術をボイトレに活かす試行錯誤中の私にうってつけ。

https://note.com/voiz/n/nb8d37d4d8fba

このワークショップのために書いた文章を貼っておきます。

『私はこれまで、SLSを中心に、フースラー、エスティルなどの発声メソッドを学んできました。これらはそれぞれに特色があり、アプローチの方法に差異がありますが、いずれも基本的には科学的な根拠に基づく発声メソッドです。
 このような西洋的な発想に基づくメソッドに対し、徳久さんの提唱されているメタ発声ボイトレは、ある意味東洋的な発想と言えると思います。個々のテクニック以前に、自分の身体に注目し、その状態を変化させていくことで声を根本から変えていこうというものだと理解していますが、その根底には韓氏意拳を始めとする武術由来の考え方があります。
 私も徳久さんのメソッドの恩恵を受けた一人であり、こうした考え方に基づく発声メソッドをより深めていこうと考えています。この1年半ほど、徳久さんの武術の師匠である光岡英稔先生の講座に通い、その考え方を発声に活かせないか試行錯誤しています。
 今回のワークショップではそこで得たこと、また自分の今の考えを共有し、ディスカッションしていきたいと考えています。私自身もまだ試行錯誤の途中なので、皆様とのふれあいの中で自分の考えを深めていければと思っています。』

お申し込みは以下のフォームからどうぞ!

https://maroon-ex.jp/fx26396/u3kMiG


ダヴィデの声明・如来のイムヌス

今週末のコンサート、予定通り開催いたします。

情勢を鑑みてのキャンセルなどもあり、申込み人数が増減しておりますが、今のところ、あと14席残っております。

私のこれまで参加した企画の中で最もトガッた企画です。

ただ音響的には比較的心地よい部類に入ると思います。皆様のお申し込みをお待ちしております。

先日行ったリハーサルから音源をアップしました。

よろしければこちら御覧ください。

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Salicus Kammerchor

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J. S. バッハのモテット全曲録音CD完成!

ウェブ販売を行っております!

https://salicus.thebase.in/

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演奏会情報

次回演奏会は

https://www.salicuskammerchor.com/concert

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サリクス通信

サリクスの最新情報や、ここでしか読めない特集記事を配信しています。

http://www.salicuskammerchor.com/mail-magazine-1

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櫻井元希へのお仕事・レッスンのご依頼ご相談、チケットのお求め等は以下のフォームよりお気軽にお問い合わせください。