謹賀新年2023

謹賀新年2023

みなさまあけましておめでとうございます。

2023年のお正月、いかがお過ごしでしょうか。

私はというと、サ終(サービス終了)になったソシャゲ(ソーシャルゲーム)を惜しんでサブスク(サブスクリプション)でBGM(バックグラウンドミュージック)を聴きながら泣いています(さめざめと)。


今年の年末年始はとにかく薪をよく割りました。

これほぼすべて私が割りました。

あとすっごい木目がねじれてる木があったので記念撮影しました。

いやあ美しい。自然ってすごい。

あと毎年恒例ですが、ラッキー君に乗って

口琴を聞かせてあげました。

3つ口琴を持って帰って、二人に渡して10分くらい練習しただけですが、結構上手笑

ちなみにネイも持って帰ってましたが、母はお笑いを観ながら2時間くらい格闘してました。ほんとネイって難しい。


年末に話が戻りますが、2022年最後のコンサートは叔母とのコンサートでした。

ご来場くださいました皆様、誠にありがとうございました。

こちら1月末まで限定で動画を販売しております。

詳細はこちらから↓

いつものように決してキャッチーではありませんが、これを聞いておいてよかったなと、30年後くらいに言える演奏だったのではないかと思います。


こちらの公演が終わってからは早くも年末モードに突入し、趣味の多重録音にいそしんだり、

日独お散歩振興会例会に参加したりしておりました。

お散歩はいいですよ。振興しましょう。お散歩。


サリクスの定期会員の締め切りが年末にありまして、今年は89名の方にお申込みいただけました。

誠にありがとうございます。我々の活動は皆様に支えられております。

そして5月の第8回定期演奏会のフライヤーが完成しました!

凄くいいです今回のデザイン!

演奏会詳細はこちら↓
https://www.salicuskammerchor.com/concert


そして先日、年始恒例のカペラの演奏会が終演いたしました。

今回のメンバーはみんなサリクスで(笑)、Ensemble Salicusに花井先生が客演指揮に来ても同じことが起こるなあと不思議な気持ちでした。

いやー今回の課題は「ちょうどええ」でしたね。

これが難しかったなあ。

ゲネプロではやらかしてますが、本番では多分大丈夫だったと思うので、よろしければ配信アーカイブお求めください。20日まで見れるようです。

https://www.woomo.jp/products/detail/1725

それにしても毎回驚いてるんですが、異次元の音響ですよね。カテドラル。


皆様、2023年も何卒よろしくお願いいたします。

菩薩のラメント×キュロスの哀愍2

前回の記事はこちらから→https://bit.ly/3heOqTx

今回は、菩薩のラメント×キュロスの哀愍の各曲について解説していきます。


第1部「菩薩のラメント」

①「エレミアの哀歌 第1章1-14節」
ユダヤ教朗唱(ヘブライ語) と グレゴリオ聖歌(ラテン語) を交互に

前半冒頭はまずエレミアの哀歌の第1章を1節から14節まで、ユダヤ教朗唱とグレゴリオ聖歌交互に歌います。

いきなり声明じゃないんですけど、うちの叔母はほんとイカれてて、いろんな単旋律聖歌を歌うことができます。プログラムを見ていただくとわかるんですが(最後に貼り付けます)、叔母はマジで超いろんな言語で超いろんなスタイルで歌う一方、私はグレゴリオ聖歌しか歌いません笑

このユダヤ教朗唱とグレゴリオ聖歌の交互唱はなかなかこれだけでもとてもおもしろくて、ヘブライ語で微分音バリバリ使ってくる叔母と、Ut- Re-Mi-Faの3音しかない超シンプルな旋律でのラテン語の語りとが対照的でありながら、ヘブライ語をラテン語に翻訳して説明する読み聞かせ?のような雰囲気でなかなか味があります。


②「エレミアの哀歌 第2章14節」
声明風新作(中国語) と グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語) をポリフォニー

続いては中国語版聖書からエレミアの哀歌第2章14節を引用し、それを声明風に新作したものと、同じ節をグレゴリオ聖歌風に新作したものでポリフォニーします。

送られてきた声明の音源をミの旋法と捉え、第3旋法風の対旋律をつけました。

これは即興風というよりは対位法風に作りましたが、何が協和音程で何が不協和音程なのかという価値観はこの世界線には存在しないので、勘で作りました笑

これなかなかいい感じにポリフォニーになってると思います。


③「エレミアの哀歌 第4章17節」白拍子風新作(日本古語)

「エレミアの哀歌 第4章18-22節」朗唱様式(ラテン語)
をポリフォニー

前半最後はエレミアの哀歌第4章17節を叔母さんが白拍子風に新作したもの(聖書のテキストを日本古語に翻訳!)に、哀歌のその次の節からを朗唱風にしたものを合わせます。

この章は典礼の中では使われていないのですが、①で演奏した(典礼の中で使われる)他の節と同じ方法で朗唱します。

なので新作というわけではありませんが、こういう曲は実際には存在しないという意味では新しい曲と言えるかもしれません。

朗唱なので割と一つの音でととととととっと読んでいくのですが、これがまた「喋るドローン」みたいな感じになって面白いです。


第2部「キュロスの哀愍」

④「エレミア書 第29章10節、第25章22-23節」
グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語)

エレミア書から引用したこちらの節では、エルサレムが70年神から見放され、70年後に再び復興することが預言されています。キュロスによってエルサレムが返還されたというのがこれにあたり、今回この部分をキュロスの円筒碑文に先立つ形で取り上げました。

こちらはポリフォニーではなく全く単旋律のグレゴリオ聖歌風新作です。

他の部分で第1旋法が出てこないので第1旋法で作りました。

まず29章の方をDのドローン上で即興し、それを録音したものを採譜するというやり方で作ったので、方法としては結構オーセンティック何じゃないかと思います。紙の上で作曲したのではなく、即興したものを書き留めたという点で。

これをアンティフォナとし、25章の方は詩編唱風に歌います。詩編やカンティクム以外を詩編唱のように歌うことは多分典礼上はないと思うのですが(違ったらごめんなさい)、この世界線では何でもありなので、こういう非現実的なことにもチャレンジします。

雰囲気としてはIntroitus(入祭唱)風になっております。


⑤「キュロスの碑文第32-35節」
新作(アッカド語)

こちらは叔母によるソロです。アッカド語ってそもそもどういう発音で喋られていたかすら分かっていないらしく、まずそこから復元して旋律つけてってもう完全にどうかしてますよね笑

どんだけ手間なんだ。

詳しくは叔母が書いたこちらの記事を御覧ください→https://bit.ly/3iU4ZV8

⑥「キュロスの碑文第35節」声明風新作(中国語)

「イザヤ書第44章21-27節」エピストラ風朗読(ラテン語)
をポリフォニー

続いてキュロスの碑文(アッカド語)の一節を中国語に翻訳したもの(!)を声明風に新作したものに、イザヤ書の一節を合わせます。

イザヤ書の当該箇所ではキュロスによってもたらされたエルサレムの復興が語られています。

ここでは旧約聖書をミサの中で朗読するときの方法で朗読します。カペラの演奏会に来たことのある方は「ああ、あれか」とピンとくるはずです。

⑦「延命十句観音経、梵網菩薩戒経偈」(読経)

「イザヤ書第44章28節、第45章1節」グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語)
をポリフォニー

最後はお経とグレゴリオ聖歌のポリフォニーします。

キュロスの碑文の最後の節がキュロスの長命を願う言葉で終わっているため、同じテーマを持つ「延命十句観音経」と、その続きである「梵網菩薩戒経偈」も取り上げました。最後に菩薩登場ということで前半プログラムとのテーマの回帰みたいなところも狙っております。

これに合わせるグレゴリオ聖歌はまさに「キュロス」の固有名詞が登場する(ラテン語ではCyro)箇所で、ここでの作曲方法は、グレゴリオ聖歌が新作される時に用いられる「替え歌」の方式を取りました。

なので厳密に言うと作曲ではないのですが、実際そういうやり方もあるので、伝統に基づいたやり方友言えます。

このお経に合いそうな第7旋法のグレゴリオ聖歌を探して、それにイザヤ書のテキストを振りました。


まとめ

まとめますと、内容的にはざっくり前半はエルサレム没落の嘆き、後半はエルサレム再興。

構成としては、

前半は交互にソロ→ポリフォニー

後半は私のソロ、叔母のソロ→ポリフォニー

という感じで、ポリフォニーも、お互い旋律のもの(②)から、私のドローン×叔母の旋律(③、⑥)、私の旋律×叔母のドローン(⑦)というなかなかバラエティに富んだ構成となっております。

以下プログラム全体です。


プログラム

第1部「菩薩のラメント」

①「エレミアの哀歌 第1章1-14節」
ユダヤ教朗唱(ヘブライ語) と グレゴリオ聖歌(ラテン語) を交互に

②「エレミアの哀歌 第2章14節」
声明風新作(中国語) と グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語) をポリフォニー

③「エレミアの哀歌 第4章17節」白拍子風新作(日本古語)

「エレミアの哀歌 第4章18-22節」朗唱様式(ラテン語)
をポリフォニー

第2部「キュロスの哀愍」

④「エレミア書 第25章22-23節、第29章10節」
グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語)

⑤「キュロスの碑文第32-35節」
新作(アッカド語)

⑥「キュロスの碑文第35節」声明風新作(中国語)

「イザヤ書第44章21-27節」エピストラ風朗読(ラテン語)
をポリフォにー

⑦「延命十句観音経、梵網菩薩戒経偈」(読経)

「イザヤ書第44章28節、第45章1節」グレゴリオ聖歌風新作(ラテン語)
をポリフォニー


いやあ我等ながら面白そう。

皆様ぜひ会場に足をお運びください。

ご予約は→g.sakurai.office@gmail.com

菩薩のラメント×キュロスの哀愍1

今週末に迫りました叔母との企画について、お話したいと思います。

この企画は2020年に開催した「ダヴィデの声明×如来のイムヌス」の続編で、「声明とグレゴリオ聖歌のポリフォニー」をテーマにしています。

前回は「カタカナの漢字×漢字のカタカナ」、今回は「漢字のカタカナ×カタカナの漢字」ということで入れ子になってるんですね。一応考えてるんですねそういうところ笑

そもそも私たち叔母甥は、というか櫻井家というのがちょっと変わってて、叔母が声明パフォーマーで、甥がグレゴリオ聖歌歌いなんですよね。

それで叔母は仏教徒ではないし、甥はクリスチャンではないというのがミソなのです。

いわゆる声明とグレゴリオ聖歌の企画というのは結構いっぱいありまして、珍しくもなんともないのですが、仏教徒でもクリスチャンでもない人がやるからこそできることというのがあるんですね。

それが「新作」です。

仏教徒が声明新作したり、クリスチャンがグレゴリオ聖歌新作したりしたら怒られますよね。普通。そうじゃなくても怒られそうだけど笑

だから一応声明「風」新作、グレゴリオ聖歌「風」新作としているのです。

それでなんのために新作するかというところですが、それはポリフォニーするためです。

つまり声明とグレゴリオ聖歌を同時に歌って、アンサンブルするのです。

既存の声明と既存のグレゴリオ聖歌を同時に歌ってももうそれはただのパラレルワールドなのですが、新作であればピッタリいい感じにアンサンブルできるわけです。(だから普通はせいぜい声明とグレゴリオ聖歌を交互に歌うくらいしかできないんです)

前回のはこんな感じ。

こんなほうぼうから袋叩きにあいそうなイカれた企画はアングラ声明パフォーマーとハードコアグレゴリオ聖歌歌いにしかできません笑

類まれな企画であるということだけは保証します!


今回のテーマは前半は「エレミアの哀歌」、後半は「キュロスの円筒碑文」です。

エレミアの哀歌は旧約聖書に含まれる、預言者エレミアがエルサレムの陥落を嘆いた歌で、キュロスの円筒碑文については下記ウィキペディアをご参照ください笑

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC

上記ウィキにも触れられておりますが、キュロスについてはイザヤ書44章にも記述があり、私の歌唱部分はその部分と、関連するエレミア書第25章からとられています。

というわけで今回のテキストはほぼ旧約聖書から取られています(キュロスの円筒碑文そのもの以外)。

(だんだん何をやるかわかってきましたよね?ほんと説明するの大変なんだから!)


ここから各曲の説明に入ろうと思いましたが、あまりに長くなってしまうため、その2につづく!ということにしたいと思います。

皆様ぜひともこの空前絶後のライブにお越しください!

お申し込みはこちらのメールアドレスまで→g.sakurai.office@gmail.com

光岡英稔 韓氏意拳講座|12-13回目

先月末から今月末にかけて、BUGAKUと韓氏意拳の講座を受講しました。

まずは韓氏意拳の方からレポートしていきたいと思います。

BUGAKUの方は25回受講してるようなんですが、韓氏意拳はまだ13回なんですね。

開講頻度と金土日にやってることが多いということでそうなってるようですが、前回から少し間があいてしまいました。


これまでのレポートはこちら↓
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1
韓氏意拳講座|8回目https://is.gd/ayTQMA
韓氏意拳講座|9回目https://is.gd/NCZKxY
韓氏意拳講座|10回目https://is.gd/YXuCSM
韓氏意拳講座|11回目https://bit.ly/3PEGYgt


9/30初級講座

王向斉の意拳→韓星僑の意拳→韓競辰の韓氏意拳という流れの中で、先代から何を受け継ぎ、何を新たに生み出していったのかという解説を受ける中で、これからの韓氏意拳はどうなっていくのだろうかと考えていました。

シンプルイズベスト的な王向斉、そこに多様性をもたらした韓星僑、多様な体系を統合しようとした韓競辰、それを受けて光岡英稔が試みていること、そこから私たちは何を学ぼうとしているのか。

そして結構衝撃的だったのは、韓氏意拳を学ぶとき、韓氏意拳だけをやっても使えなくて、形意拳と意拳をやって初めて意味を為すというもの。

まず、それって大変すぎませんか( ´∀` )

そして、それってもはや韓氏意拳と呼べるのでしょうか、私たちが学ぼうとしているのは形意拳と意拳と韓氏意拳が総合された何か別の体系なのではないでしょうかということ。

そもそも王向斉と韓星僑は結構全然違うことをやりながら、同じ意拳という武術の名前だったのに対し、韓競辰は同じ名前を使わずに韓氏意拳としたのはなんでなんだろうとか、光岡先生の教える韓氏意拳は形意拳と意拳と韓氏意拳を総合した光岡氏意拳なのではないかとか考えてました。

が、これっておのれを振り返ると、グレゴリオ聖歌とルネサンスポリフォニーやらずにバッハやったって意味ないぜって結構同じこと言ってませんか?笑

これって私の中では自明なことで、しかも韓氏意拳が韓氏意拳であるように、バッハはバッハなんですよね。

そして私が「それって大変すぎません?」って思ったように私に指導される人たちは思ってるんだろうな。。。

気持ちがすっごいわかりました笑

前半の講義はそんな感じで「うむー」と考えていましたが、後半の実技(?)の内容はなんというか豪快というかシンプルというか、「挙式」ってバックドロップだぜっていう内容でした笑。

やっぱり韓氏意拳って抽象的に感じてしまうところがどうしてもあって、難解だなあと多分みんな感じてるのではないかと思いますが、今回の講座はなんというか明解極まりないというか、こんなに「わかりやすい」と感じた韓氏意拳の講座は初めてでした。

様々な武術家の実践の経験が抽出されたものとして型や式があって、その実践の経験が無い者がその体系に取り組むときにその型の意味を汲みとるのはやっぱり難しくて、どうしても抽象的になるのではと思います。

多分私の人生でバックドロップをやったこともやられたこともなかったと思うので(多分)

そういえば私もボイトレでインワードボーカルフライとか、カルグラとかヨーデルとかよく使いますが、so-so聴いたことない人がインワードボーカルフライやってもよくわかんないだろうと思います。

今回私たちがバックドロップを経験したように、インワードボーカルフライを取り入れるならやはりso-soを経験しないとあかんですね。

ところで光岡先生に落とす直前までバックドロップかけていただいたのですが、もうなんというかキレが凄くて(何がどうなってるのかわからないのでそのくらいの事しか言えない)スバッてこう持ち上げられたのですが、多分5年前の自分だったら肋骨いってたと思います。

その瞬間自分でも何かやったつもりはないのですが、こう、肋骨がきゅっとして無傷で済んだんですね。

バックドロップを受けて知る、自分の身体の成長よ。


10/2初級講座(1コマ目)

この日の講座は・・・・メモが5ページもある・・・。

それだけ内容が濃かったということで。いやあまとめるの大変そ。

午前のコマはお話がかなり沢山で、脳味噌爆発しました。

武術の講座で脳味噌爆発するのも光岡先生ならではですよねえ。

「形と感覚」

というお話で、形意拳、意拳、韓氏意拳の

流派としての形→稽古方法としての形→その中の動き・行いとしての形→止まるポイントとしての一つ一つの形

という4段階におけるそれぞれの形の捉え方(?)というお話でした。

形にこだわるという点がこれらの体系の共通項、世にあるいわゆるボディワークは動きには注目する傾向にあるとのこと。

そしてその形がどうなっているかを判断するのは「感覚」

その感覚を問うことのできる感性

その問いの答えを頭に求めるのか、身体に求めるのか。

そこのところをおさえつつ、形体訓練の稽古をしました。

横向(ハンシャン)をやりながら、いろんなアドバイスを受けるのですが、印象に残ったのは、力みに対する指導で、

「固まってるところを固めないようにしようとして、ただボーっとしてる。固まったままボーっとしてるだけだ」

というので、確かに恣意的身体に入ってしまっていると、頭がボーっとしてれば身体も緩んでるような気がするのですが、それ頭の中の身体が緩んでるだけなんですよね( ´∀` )

あとは、「故意に操作していることを習慣化していることを頭が「自然」だと錯覚している」

とかも実に身に覚えがあることでございました。

あえてそうやろうと思わなくてもできるようになってしまった事柄について、自然にできていると思ってても、過去の自分が不自然を習慣化しただけだったという。

つまり(頭にとって)自然に、(身体にとって)不自然をやっている。

世の中で言う「自然」って大概これなんじゃなかろうか。

身体の自然と頭の自然を区別するというのが(めっちゃ難しいけど)必須なんだと思います。

あとやりながら自分で思ってたのは、力むのって楽だなあということ、力むと辛そうな気がするけど、力むのってほんと簡単で手っ取り早くて、その場をしのげる可能性はあるけど、使い物にならない。

あと問いの答えを身体に求めようということはわかるけれど、多分ここにもトラップがあって、「問いの答えを身体に求めるということを頭でしかわかってない」という状態があるなあと思いました。

これだから韓氏意拳は難しい・・。一昨日とどえらい違いだぜ。


10/2初級講座(2コマ目)

内容が濃すぎてもう長くなっちゃってもう仕方ないですね。。

この午後のコマはもう更に輪をかけてディープな世界でした。

多様性に対する人間の分別感と分別心、それらを捨てた(放下した)先にある無分別心。

多様性つまり自然はカオスだということを分別を通り超えて認めるということだとあたくし理解いたしましたが、もうなにしろ難しい。。

自然に立つ、自然に動く、というのは自然を認めることなしにはありえん。なぜなら自分自身がカオスである自然なのだから。

みたいなことです多分。

そしてこれ午前の話にもつながるんですけど、この「放下」というのが、受動的にボーっとしてるのとは違うということ。

動物だったらそれでも大丈夫かもしれないけど、人間には分別があるから、分別を超えないと無分別に至れない。つまり「放下」は受動ではできない。

なにがなんだかわからないことをわかる。(但し身体で)

ということなのだと思います。

それで、挙式の稽古をしたわけですか、これらのことが、「はいわかりました!」という具合にはできません当たり前ですが。

これらのことを目標に日々稽古に励む他ないのであります。

結局稽古の指針、目標を与えるということが指導の目当てであって、その場でパッとできるようなことはあんまりないんですよね。

ボイトレも合唱指導もそうですが、とにかく自分が稽古しないことには何もできん。

超当たり前で恐縮ですが、しかし稽古もせずに自分のできなさを先生のせいにしてること多くないですか?(自戒で自壊)

というわけで今朝も稽古に励みます。

毎朝稽古を始めてからもうすぐ3年、見た目も変わりましたが中身はもっと変わってます。

出張先でも、合宿先でも、旅行先でも毎朝1時間稽古しています。

稽古すれば上達します。上達すると楽しいです。楽しいから稽古します。

やろうぜ!稽古!


声明とグレゴリオ聖歌がポリフォニーする PARTⅡ
「菩薩のラメント・キュロスの哀愍」

少し先ですが、12月17日(土)昼公演@えびらホールです。

叔母との企画第2弾です。

グレゴリオ聖歌と声明を交互に演奏する企画は普通ですが、グレゴリオ聖歌風や、声明風を新作してしかも同時に歌うというのは無いと思います。多分。

私はラテン語で5曲新作、叔母は中国語、日本古語、アッカド語4曲新作です。やば。

叔母が仏教徒、私がクリスチャンだったらできません。多分。

東西の単旋律聖歌のアウトロー叔母甥だからこそできる無二の企画だと思っています。

櫻井家のイカレた血筋をご堪能ください。

https://www.facebook.com/events/1482411928891613


Salicus Kammerchorカンタータ公演vol.2

こちらも第2弾の企画で、カンタータを4曲とモテットを1曲やります。

全てツィンクとサクバット入りの豪華編成です!

モテット風冒頭合唱を金管と一緒にぬるぬる歌うサリクスをお楽しみに!

11/25ルーテル公演
11/29豊洲公演

演奏会詳細はこちら↓ https://salicuskammerchor.com/concert

ダヴィデの声明・如来のイムヌス|終演

先週土曜日、叔母との企画が終演しました。

統計開始から最速だった東京の桜の開花宣言の日に雪が降るというわけのわからぬ天候の中、ご来場くださいました皆様、誠にありがとうございました。

いろいろな事情を鑑みたうえで、この企画は私たち叔母甥にしかできない企画だったのではないかと思います。

グレゴリオ聖歌風に新作とか、声明風に新作とか、まともな神経ではできないです。そんなことができるのは、アホかイカれてるかどっちかで、私も叔母も後者です。

今回プログラムには歌詞しか載せなかったし、MCも最小限だったので、少し制作の過程をここに記しておこうと思います。


前半は詩編23をいろいろな言語で、いろいろなスタイルで。

同じテキストで違う作曲家やスタイルでというのはサリクスでもおなじみですが、それのひどいやつと思っていただければいいかなと思います。

1.”Dominus regit me” グレゴリオ聖歌(ラテン語)
2.モロッコ系の朗唱(ヘブライ語)
3.「主は私の羊飼い」グレゴリオ聖歌風に新作(日本語)
4.声明風に新作(中国語)
5.「主はわれらの牧者」高田三郎(日本語)
6.声明風に新作(中古日本語)

1と3と5が私が担当した部分で、1は普通にグレゴリオ聖歌。受難節第1主日の聖体拝領唱です。

3は昨年出版された聖書協会共同訳聖書の詩編23編のテキストをそのまま使って、日本語でグレゴリオ聖歌風に作曲したらどうなるかというのをやってみました。

旋律定型を織り交ぜつつ、日本語の抑揚や内容の象徴なんかも考えながら作りました。しかも10世紀頃に書かれた古ネウマも用いながら作ったので、特殊ネウマのコブシみたいのものも結構沢山用いました。意外とそのあたり日本語との相性よかったんじゃないかなと思っています。

5は現行カトリックでも用いられている高田三郎の典礼聖歌からとりました。

2.4.6が叔母の担当した演目で、2はユダヤ教の実際の典礼で使われているような話だったので(曖昧でごめんなさい)、前半プログラムのうち新作は3.4.6の3曲で、半分新作だったということになります。


後半は如来唄と中唄の流れにそって、それをいろんなふうに歌うということをやりました。

1.「如来妙」 声明(漢文)
2.「色」 グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)
3.「講式 」声明(中古日本語)+ドローン(ラテン語)
4.「身」 グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)+声明風ドローン(漢文)
5.「世」 声明(漢文)
6.「間無当等」(中唄)声明(漢文)+グレゴリオ聖歌風に新作(ラテン語)+詩編唱(ラテン語)

1は普通に声明、2は経典をラテン語訳してそれにグレゴリオ聖歌風に作曲しました。

この作業がなかなか大変で、固有名詞をどうするかとか、仏教的な言い回しをラテン語に直すのにキリスト教の考え方に置き換えてみたりとか、なかなかの超意訳をしております。笑

例えば
哀愍覆護我 令法種増長 此世及後生 願我常摂受
という文言は日本語だと、

なにとぞ、哀愍のお心を垂れたもうて、私をお譲りくださって、仏法の(優れた美徳を発育させる)種子を増長させ、現世と未来世とにかけて、願わくばみ仏が常に(私の願いを)救いとって(摂受)くださいますように。
となります。

これを
主よ、私を哀れんでください。
日毎私の心を励まし、
いつも私に耳を傾け、お救いください、
主なる神よ、とこしえに。

と書き換え、ラテン語にしました。

Miserere mei, Domine,
adjuva me cotidie,
inclina aurem tuam ad me, et salvum me,
Deus meus, in aeternum.

言い回しをキリスト教風にね。しましたね。

3は声明にラテン語のシラブルでドローンをつけました。ドローンとは言いつつも割と頻繁に音を変えていましたので、どちらかというと長音価の定旋律に声明が乗ってるという感じに聞こえたかもしれません。

4はグレゴリオ聖歌も声明も両方新作で、まず私が2でやったのと同じようにテキストを作って、ドローンがつけやすいようにDをfinalisとする旋法でグレゴリオ聖歌風に新作し、その音源を送って、それに合わせて声明風ドローンをつけてもらうという方法をとりました。

しかし出来上がったのはドローンとは言えないくらい普通に声明みたいで(少なくとも私にはそう聞こえました)、グレゴリオ聖歌と声明の対等関係のポリフォニーのような感じになりました。

5はまた普通に声明で、6は声明+グレゴリオ聖歌風新作+詩編唱ということで、如来をマリアにみたて、聖母の晩課で唱えらえれる詩編を用い、グレゴリオ聖歌風新作と交互に歌うAntiphona風にしました。

もとの声明が、音を長く伸ばす部分と、動きのある部分が交互に現れるような構成をしていたので、声明が長く伸ばしているところに動きのあるAntiphonaを、声明に動きのある部分には同じ音で唱える詩編をあてるという方法をとりました。

詩編唱は旋法によってそれぞれ定型を持っているのですが、その時の声明の動きとマッチする旋法を選びました。

その結果音域の高い旋法と低い旋法がたまたま交互に現れるようなことになり、声明の上で唱えたり、下で唱えたりと、声部交差が頻繁に起こって、そういった意味でも変化に富んだものになったのではないかと思います。

同じシラブルを何度も何度も、ずーーっと引き延ばして歌う声明に対して、次から次へとテキストを畳みかけるような詩編唱が対比され、トランス×トランスのような状態になったのではないかと思います。


今回の企画、破戒的な企画だったとは思います。

しかし鳴り響く音を聴くと、それほど不快ではなく、むしろ意外と心地よい感じになったのではないかと思います。

しかしその内容はそれぞれの業界から袋叩きにあうようなヒリヒリとした部分をはらんでいて、しかしそれでいて、もっとずっとずっと深いところでは響きあう、通底するものがあるよって、そういう3層構造になったのではないかと思っています。

二つの宗教のモノフォニーが歌いかわし、交わることで、祈るということについて、思いを馳せる機会になったのであればうれしく思います。


聴きに来てくれた家族、スタッフ、そしてコエダイ関係のみなさんと。
左4人はカルグラしてるので不思議な表情と口の形になっております。

そしてこの4人、実に15年ぶりの集結でした。

15年前、私が18歳のとき、叔母が広島大学入学のお祝いに東京に呼んでくれて、この4人でTOKYO DEATH FEST2005という日本初のブルータルデスメタルのフェストに行きました。

この時が徳久さんと私の初対面。ライブ後渋谷の中華屋で中華食べながら親父と徳久さんが話していて、徳久さんの発言をきっかけにできたのが、ポリゴノーラです。

ポリゴノーラについてはこちら↓
https://www.oto-circle.jp/music

というわけで、もう私が徳久さんと出会ってから15年も経つんですね。恐ろしい。

実は昨日も徳久さん出演のライブを見に行ったのですが、もうこの記事的には長すぎるので次の記事に譲ることにします。

徳久さんとのワークショップは来週末です。

声に興味のある人全員にイチオシのワークショップですので、ぜひお申し込みください。

詳細コチラ↓
https://note.com/voiz/n/nb8d37d4d8fba


昨年7月から活動開始したアマチュア合唱団、Chor EleusisのFacebookページとTwitterアカウントを作りました。

皆様フォロー、いいね!シェア、リツイートじゃんじゃんお願いします!!