先週末金曜日にまた光岡先生の講座に行ってきました。
午後にBUGAKUのプライベート講座、夜間に韓氏意拳の講座だったので、タイトルが長くなってしまいました。。
前回の講座参加から約2ヶ月あいてしまって、ちょっと不安がありましたが、今回もがっつり学んできましたので、私の理解している範囲でレポートしていきたいと思います。
【これまでのレポート】
BUGAKU講座|1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU講座|2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU講座|3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座|1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU講座|4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU講座|5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座|2回目https://is.gd/G7l53a
BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit
韓氏意拳講座|6回目https://is.gd/dlMQTX
BUGAKU講座|10回目https://is.gd/RczZH5
韓氏意拳講座|7回目https://is.gd/a1Yor1
止観法
今回のBUGAKUの講座はまず観法から始まりました。
観法というのは自分の身体を観ていくというもので、シンプルだけど奥が深い、BUGAKUにおける基本にして奥義、みたいなものです。
観ていくことで身体の状態を変える。
その観法の新バージョン「止観法」。
とめるという字ですが、ここでは「やめる」という意味なのだそうで、
「右手が、右手であろうとしていることを、止める」
と言われた瞬間総毛立ちました。
わお。わしの右手は、右手であろうとしとったんか。ご苦労じゃったなあ。
と思いました。
こんな調子で、全身の各部分を観法で観ながら「〜であろうとしていること」を止めていきます。
家帰ってから何度もやってみましたが、私の場合、目と脳がなかなか止めれないようでした。
しょうみな話、右手が右手であろうとしていることを止めても、右手は在るんですよね。無くなったりしない。ということは右手であろうとしていることは余計なことなので、止める。余分を無くすことで、ポテンシャルを活かす。
そういうことなのだと思います。
私たち、父であったり、母であったり、子であったり、教師であったり、自衛隊員であったり、ビートボックスラバーであったりしますけど、過度にそうあろうとすることは負担になりますよね。ときどき息苦しくなる。
身体にもそういう思いをさせていたのかもしれないなと思いました。
わたくしこの2年ほど毎朝稽古やってるんですけどその中で最近四足で家を歩き回るというのやっていまして、この止観法で手が手であろうとすることを止めたら、四足で歩くのが楽になりました。手であろうとしたまま前足として運用するのはやっぱり無理があったんだろうなと思います。
多分こういうことがしょっちゅう起こってる。日々の生活のなかでみつめていきたいと思います。
受け入れて、結んで、ほどく
後半はフィリピン武術の組み手?のようなことをしました。
なんとなく周りから見ていると一見アルプス一万尺の一種かなと思うようなリズミカルな動き。歌でも合わせてやると良さそう。
ナイフでの攻防を前提としてもので、もうそういうシチュエーションになったらそういう動きが出ちゃうっている「手癖」をつけるということでしたが、ガチで丁寧で、正確にしかもリラックスして、というのが本当に難しかったです。
雑談しながらぱっぱっぱっと何時間でもできるような感じで、実際雑談しながらやってみたのですが、その中でいいかげんにならずに正確に動くというのはこれ日々やってないとできるようにならないのではないかと思いました。
終盤で、実際に練習用のナイフを持っての稽古も行いましたが、デモンストレーションで2回ほど死にました。
腰をぶすっと刺されたのと首をスパッと切られたのですが、首は私が持ってるナイフで切られたんですね。
ほんとアニメかCGみたいでした。自分の手がどういう軌道で、どのように自分の首を切ったのか、全く認識できなかった。
速さと正確さが尋常じゃない。
きれいに、切れましたね。と言うと、いや、動脈は外してる。とのこと。練習用のナイフですが、一応外してくださったみたいです。。。
このレベルの使い手に暗殺依頼されたらひとたまりもないですね。暗殺者に狙われないような生活を送ろっと(向上心はどこに)
黄帝内経
ここからは韓氏意拳の講座の内容です。
中国文化の背景から韓氏意拳を考えるというのがテーマになっていて、四足の身体観から進化の過程を追いながらのアプローチは、黄帝内経の考え方がベースになっているそうです。
四足から後足歩行、道具の経験を経て二足歩行へと進化していくという過程を追うように試し稽古を行うと、人間の身体が持っている特徴を発見することができます。
いつも書いてるような気がしますが、これは経験してみるとなるほどそういうことかとわかるんですけど、経験してみないと絶対わからないと思います。多分。経験なしに理解しようと思ったことがないのでわかりませんが。。
これらの稽古をやっている間、光岡先生に「最近五体投地はやってる?」と聞かれまして、やってますよと答えると「伸びる方はやってる?」と更に聞かれまして、伸びる方、、やってないですけど、伸びる方もやったほうがいいんですか?と聞くと、「いや、聞いてみただけ」とのこと。
五体投地から站樁
きいてみただけかーい!というツッコミを心に秘めながらおりましたら、なんと五体投地から站樁への入り方という全く想定外の流れになりました。
私がいつもやっている、仏教系の五体投地には、王向斉の站樁と親和性があるのだそうです。
そうなるとやはり気になるのは、韓氏意拳の站樁にはどうやって入ればいいのかということ。
質問すると「それは明日やろうと思ってたんだけど・・・今日もやるか」
いや質問してよかったー翌日の講座には行けなかったので。来月まで悶々としながら生きるところでした。
そこで出てきたのが伸びる方の五体投地、それは密教系の五体投地なのだそうです。
徳久さんがよくやってるトゥバ式の五体投地にかなり近かったです。
確かに言われてみれば、地面に両手をびたーっと伸ばすこの形、挙式に近い。。
これなんですよね。言われてみて、やってみて初めてなるほどとわかる。これを自分の感性(と観性)でみずから発見するというのは一体どういう仕組なんだろうと思うのですが、自分の身体との深い対話によって導かれるものなのでしょう。やはり観法。これを深めないといけないんでしょうね。
楽譜と対話しながら、そこに隠されたことわりを発見するのに似てるのかもしれない。ただ楽譜は見えるけど身体は見えない。身体を観る目を養わないとあかんのです。
目に見えてる世界は世界の1%なんだろうな。
ということで今まで私は意拳と相性のいい五体投地と韓氏意拳の站樁や形体訓練を組み合わせて練習してしまっていたんですがこれはチャンポンだったようです。
うーむ。
これまでとにかく習ったことで一人でできることは全部やろうと思ってやってましたが、練習メニューをもっと精査しなければならなかったです。
これ合唱のボイトレではいつも言ってることで、ここではいくつかの練習方法を提示するので、自分に合うものを選んでやってくださいってことなんですね。
ひとにはいつも言ってるのに自分のことになるとただがむしゃらにやれること全部やろうとしてた。
まあ一つにはだんだん習ったことが蓄積されてきて、一人稽古でできるものが選択できるくらい増えてきたということもあるんだと思います。
ちょっと一回書き出して整理してみよう。
それでその日に合った稽古方法を選べるようにしよう。と心に決めた一日でした。
パパド忘れてますよ
BUGAKUの講習会の終わりに、受講生の方からGENKI専用ドリンクをいただきました。
めっちゃいいですよね笑
そこでハッとしたのです。今日パパド持ってねえ。
最近パパド配りおじさんというのをやっていまして、ことあるごとにパパドを布教しています。
パパドって豆でできたうすーいせんべいみたいなもんで、油で5秒揚げるだけで二度とポテチ買わなくていい体になるっていう悪魔の食べ物なんですけど、この日に限って在庫を切らしていました。
私としたことが。。油断した。。
今度の講座には忘れず持っていこうと思います!