光岡英稔|韓氏意拳講座(2回目)

先週金曜日の夜、久しぶりに光岡先生の講座に参加できました。

4月ぶりだから4か月ぶりですね。

なかなか生きづらい状態が続いているので、このコロナ禍をサヴァイヴするための術を習ってきました。

光岡先生の講座についてはほぼ毎回レポートを書いています。

これまでの記事は以下です。

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://is.gd/BudtIW

このレポートは自分のためにまとめています。

なのでこれを読んだだけでは何が何だかわからないと思いますが、興味を持たれた方はぜひ講座を受けてみてください。もっと何が何だかわからないので(笑)

世界にはまだ自分が知らないことがあるよなあああ、、神秘(遠い目)

という気持ちになれます。

何が何だかわからんが何が何だかわからんものに向かい合う術が身につくような気もします。


自然とは

今回受けた講座は韓氏意拳の初級講座です。

韓氏意拳は中国の武術で、身体の状態に注目し、そのポテンシャルを最大限に引き出すというコンセプトをもっています(と私は解釈しています、という語尾にここから先はすべて読み替えてください)。

講座はまずこの韓氏意拳の歴史から。

心意拳(約450年前)→形意拳(約200年前)→意拳(100年前)→韓氏意拳(20年前)

形意拳までは誰から誰に受け継がれていったものなのかわかるそうです。

韓氏意拳が最も大きなテーマとしているのが

「自然か、不自然か」

ということで、これを探求するために

「形」「動き」「状態」

に注目します。

今回の講座もまずは「形」ということで最もその基本となる「立ち方」にかなりの時間が割かれていました。

2時間半の講座のうち立ち方に費やした時間は実に1時間。

1時間立ってるだけです。

この丁寧さは本当に凄い。できないです。立つということだけを1時間指導するというのは普通。

そしてこの基本がないと站椿も形体訓練も意味ないですよと言われてあははは。私意味ないこと去年の12月から毎朝30分ほどやっておりました( ´∀` )

でもこういうことは音楽家にとっては日常で、それ無駄、それ無意味、それ嘘、それ勘違い、それ逆効果、みたいなことを毎日毎日やってるのです。

どんとこい。

でその立ち方ですが、

①足の親指の付け根が肩の関節の真下に来るように立つ。

②椅子に座る、立つを繰り返してみて、その途中で、足の指先が膝の真下に来たところで止まる。

③その立ちかけ、座りかけの姿のまま上半身、特に腰の力を抜く。

④右のお尻の重さが腿裏、ふくらはぎ、かかとを経由して足の前半分にかかるようにする。左も同様に。

重心が前にあるということなのですが、体重が足の前側にかかっていたとしても重心が前にあるとは限らないと言われていて「なんぞ??」と思いました。

そんなこと考えたこともなかった。

あとは自重が直接足の裏にかかるのではなく、腿、ふくらはぎを経由するということも大きなポイントのようです。

足の前半分に体重がかかっていることを確かめるために、足の指先で体重を感じられているかどうかというポイントがあって、これは私かなりしっくりきました。足の指で体重を感じられているときはなんだか良い感じがしました。

それでこれを一人一人指導していくんですね。胸のところを押して安定しているかどうか確かめながら。

やはりうまくいっているかどうかは外力が働いて初めて感じることができます。

同じ形のつもりでも、うまくいく場合とそうでない場合があります。

それは同じ形のつもりになっていて実はそうでない、という場合と、同じ形なのだけど状態が違う、という場合があります。

後者は韓氏意拳では「形同実異」といいます。

それでまあちょっと連想したのが、テクニックだけでは、似たようなものにしかならないという話です。

ペルソナを何重に重ねていったとしても、その人にはならない、という話にも似ていますね。

例えば、私は音楽家で、夫で、息子で、芸大卒で、広大卒で、誰々門下で、1986年生まれで、指揮者で、声楽家で、古楽を主に演奏していて、デスメタルが好きで、特殊発声に興味があって、というスクリーニングをどれだけ重ねていっても私にはならない。というあれです。

発声のテクニックで、パーツを組み合わせていくのもこれに似ていて、

喉頭下げて、舌の圧縮して、声帯薄めで、フォルマント同調して、喉頭蓋倒して、アンカーして、ってやっても、オペラっぽい音が出るだけ。

声同実異

聴きたいのは声じゃなくて音楽だよってことですね。


形体訓練

はい。脱線しましたが、「立つ」のセクションの後には形体訓練、それも前擺(チェンバイ)と後擺(ホウバイ)だけやりました。

後擺の方を先にやってこれだけでまた1時間、前擺で30分で2時間半の講座です。

いやこれとんでもねえっす。

「立つ」「前擺」「後擺」で2時間半です。自分でやったら長くても15分で終わっちゃう(笑)

形体訓練は普通は前擺が先なのですが、今回は後擺からやりました。

これまでやっていたことが結構勘違いだらけだったということがわかりました。

まず一番大きかったのは後ろの手の角度で、私は角度が広すぎたようです。右の手と左の手の角度が120度なのだそうです。

それから後擺の時掌は上を向けるのですがその角度も私掌が立っちゃってたみたいです。掌は真上を向くようにするのだそうです。

あとは肘の位置、目の付け方など非常に微細に調節していただきました。

ほんの少し角度が違うだけで構造の強さが全然違う。見た目は結構豪快に手を振っている感じなのですが、ものすごく繊細な作業です。

しかもこれを、規範に合わせて体をコントロールするのではなく、自然に手を振るとその構造になる、というやり方でやらないと武術としては全く使い物にならない。

これも全く音楽と一緒です。体をコントロールしようとしているうちは音楽なんかできやしない。

徳久さんはこれを「鞄を持って歩くくらいに」と表現されていました。

テクニックをテクニックとして認識しているうちはそのテクニックは使い物にならない。

だから稽古するんですね。


再び自然とは

コントロールすることは自然ではない。

でもコントロールしないと自然にできないような気がする。

これは不自然を自然と感じる感性が我々の中に出来上がってしまっているから。

光岡先生はホワイトボードのマーカーをもって、「これが山の中に生えてたら不自然でしょ?それを不自然だと感じる感性はある。しかしこれがホワイトボードのところに置いてあってもこれを不自然だとは思わない。この人工物を自然だと感じる感性もある」というような言い方をされていました。

だから私たちが何の疑問もなく普通に接しているものが、「自然」ではないということ。

自分の身体もそう。頭で考える自然が、身体にとって自然とは限らない。

不自然の中で培われた生活習慣の中で自分の中に生じた自然は果たして自然なのか。

身体の自然を思い出さなきゃならない。そういうひと手間が必要になってきている。

その武術、体系を生んだ人との身体観のシンパシーを築くことが、その武術、体系を理解する前提になっている。

全く古楽的ですよね。

光岡先生は韓星橋先生が背もたれに背中を付けているのを見たことがないそうです。(あと膝が伸びているのも見たことがないそうです)

背もたれに背を付けたことのない人間の身体観に対するシンパシーが我々の中にあるだろうか。

最初の「立ち方」ということも韓氏意拳ではこれまで取り扱われなかった項目なのだそうです。そもそもそんなものは必要とされていなかった。当たり前だったことを我々は1時間かけて学んだわけです(当然その1時間で、できるようになったわけではない)。

形体訓練そのものですら本来韓氏意拳にはなくて、身体の基本ができていない人も習いに来るようになってからできたものという話なので、だんだん基礎のレベルが易しくなっていってる感じでしょうかね。

果てしない道のりの入り口に立っている気分です。

今回参加できて本当によかった。

毎日の稽古がまた楽しくなります。

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