新しい音階と礼拝の中のバッハ

今週末は二つのイベントがあります。

ひとつは土曜日、以前のブログでもお知らせいたしました、うちのおやじのイベントです。

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将来音楽史の教科書に載るかもしれない画期的な試みです。
調性が崩壊したあとしばらく何も崩壊しませんでしたが、ここへ来てオクターブを12に分ける音階そのものが崩壊するかもしれません。

微分音のことを言っているのではありません。微分音は半音を何等分かにするというものですので、結局はこの12音からできた音階を離れるものではありません。

12音の音階を崩壊させるものとは何か?

それは、スイカだ!!!!

というわけで、これ以上は超難解なので、ぜひこのイベントに足を運んで、それはそれは詳細にレクチャーを受けてください(笑)。

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翌日曜日には、カンタータクラブの下谷夕礼拝公演があります。

これは毎年この時期に、上野の下谷教会で、夕礼拝の一部としてカンタータを一曲演奏させていただいているもので、今年はカンタータではなく、ミサ曲ロ短調よりグローリアを演奏いたします。

ご存じのとおり、バッハの作曲した教会カンタータは、毎日曜日の礼拝のために書かれ、演奏された音楽です。そして実は、ミサ曲ロ短調も、クリストフヴォルフによると、カンタータの代わりに(抜粋で)礼拝で使われた可能性があるそうで、そういった意味でも非常に興味深い試みと言えると思います。

無料の公演(演奏会ではないので公演というのもはばかれますが・・・)ですので、是非お気軽に足をお運びください!

イベント目白押し

演奏会シーズンが始まりましたねーー恐怖!

今週末は二つの本番があります。

10/9金曜日はヴォーカルアンサンブルカペラの定期公演です。

カペラは現在1月(成人の日)7月(海の日)10月(中旬)と3回定期公演を行っていますが、10月公演はジョスカンのモテット連続演奏をしており、今回はその2回目です。

カペラはジョスカンを中心レパートリーとし、すでにミサ曲は全曲演奏、全曲録音を終了しています。これ結構すごいことだと思うんですけどあんまり話題になってませんね(笑)。

録音は終わったもののリリースがまだだからですかね。はやくでないかなーー次のCDから僕も歌っています。

ミサを終えたカペラは次はモテットだということで始めたのが、ジョスカンのモテット連続演奏会です。
この演奏企画では、モテットだけでなく、世俗曲、シャンソンも演奏します。
どの曲もジョスカンの天才っぷりをこれでもかと見せつけるような逸品ばかりです。
ほんと、ジョスカンって天才ですよ。ほんと。素晴らしすぎ、感動的に天才。

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さて、カペラの定期公演の翌日、10月10日は、アガリアム合唱団主催のワークショップ&ライブに、講師として参加致します。

アガリアム合唱団とは、シンガーソングライターのアガサさんと、ヴォイスパフォーマーの徳久ウィリアムさんの作った合唱団で、世にも珍しい特殊発声を使った合唱をやっている団体です。

ウィリアムさんは僕の発声の師匠でもあるのですが、実は出会いは10年前に遡ります。
僕の伯母さんは実は音楽家で、そもそもは作曲家なのですが、現在は白拍子や声明や竜笛を活動の中心にしています。
櫻井真樹子ホームページ

その伯母が、私が広島大学に入学した時に、入学祝いに連れて行ってくれたのが、なんと、第1回東京デスメタルフェスティバル(笑)、そのイベントを伯母に紹介したのがウィリアムさんで、そこでウィリアムさんとは初めて会いました。

その時は自分が東京で音楽やることすら考えていなかったので、まさかウィリアムさんに発声を習うことになろうとは夢にも思いませんでした。

そんな縁でこの度、西洋のクラシックの合唱とはなんぞや、というワークショップの講師のお話をいただきまして、演奏もやってほしいということでしたので、その部分は、5月に立ち上げた合唱団「サリクスカンマーコア」で参加することとなりました。

前半は合唱の歴史ということで、時系列にそって、解説を交えながら演奏します。
後半はワークショップで、合唱の導入として、フォーブルドンやカノンを実践します。

こちらの企画は定員がありますので、興味のある方はお早めにご連絡ください。

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ところでこのアガリアム合唱団主催のワークショップ、11月の講師は伯母の櫻井真樹子です。
11/14(土)

『平安の歌謡入門 ~声明、白拍子』ライブ&ワークショップ

特別講師・出演:櫻井真樹子

イベントページ

そしてその伯母が作曲家として参加するイベントがコチラ

おや、もう一人櫻井という人がいますね。そう、うちの親父です。
ほんと、変な家族ですよね。
ただ手前味噌ですが、これは面白いですよ。
ほんとに素晴らしい楽器になりました。
この動画の灰野敬二さんの演奏は本当に素晴らしい!感動的!トリハダたちます!
ポリゴノーラの動画(演奏:灰野敬二)

このイベントはシンポジウムですので、非常に複雑なこの音階の理論を、がっちり説明してくれることでしょう。
音楽史が別の次元に進むかもしれない。

そんな予感をさせてくれる音階、楽器です。

言葉にしておこう

僕は本来、音楽をしてお金をもらうなんてことは本来ありえないことだと思っている。
ありえなあいのにそれがあるから、ありがてえなあ、と思っている。

お金というのは何か製品なりサービスなり、供給されたものに対して支払う対価だからだ。

音楽は製品でもサービスでもなければ、そもそも供給されるものではない。愛、と同じでそこにただあるものだ。誰かのものになることができない。
所有モードから逸脱しているという点で、音楽は需要供給の概念のそとにあるものだと思う。

ではなぜお客さんは音楽を聴きに来て、それに対してお金を払うのか。
それは、音楽の持つ、ある作用によるものではないか。
人は、オントロギッシュな猿だから、存在するという事を考えることが出来る。だから存在に対して不安をおぼえたり、生きている意味を失って絶望できたりする。
生きている意味なんかないのに、あると勘違いしてそれを追い求めたり、やっぱりないとわかってニヒルなきもちになったり、いやまてよ、意味なんかないのに生きてるってすごくね?って思ったりする。
そういうことに、音楽を含めた藝術は資する作用を持っていると思う。
それが音楽の目的ではない、というかそもそも音楽にそもそも目的はない。が、そういう力はあると思う。

つまり、生きているうちは、生きていることを忘れている、生きながらにして、生きているということを思い出させてくれるのが音楽の力である。

お客さんはその「作用」に対してお金を払っているのではないか。

音楽が人間が生きるのに必要だとされているのはそのためではないか。
本来は死ななければわからないこと、生きているということ、をわからずに生きるのは辛い。
哲学はそれを教えてはくれるけど、その方向を指し示してはくれるけど、実際にそれを体験する、実感するのは自分のこの体だから、指し示してくれた方向に歩き出すことは、自分にしかできない。音楽はその助けとなって、一緒に歩いてくれる。そんな気がする。

―――――

音楽はそもそも、在って在りつづけるものだから、誰かの音楽、よく「バッハの音楽」というような言い方をするけど、それは彼が音楽に近づこうとした証、軌跡、名残であって、バッハが音楽を作ったり、彼自身の音楽を彼自身が持っていたとかそういうことではない。
彼は受け取って、そしてそれをお返ししただけだ。

彼は「音楽の捧げもの」という曲を書いたけど、一般にはそれはフリードリヒ大王にバッハが「音楽」を捧げた、とされているけど、ドイツ語の文法からもその通りだけど、僕にはどうも字面通りには受け取れない。
音楽って、音楽から受け取って、音楽にお返しする、捧げもののようなものだよね。そんな気がする。

つまり僕らは日々音楽を音楽から受け取って、音楽を音楽に捧げている。この不毛な行ったり来たりが、「音楽する」という事なのだと思う。

だから音楽が、人間の一側面を映すものであるように、僕たちが音楽だと思っているのは、音楽の一側面にすぎない。バッハの音楽というのは、彼が死ぬほど努力して(彼は、「誰でも、私ほどに努力すれば、私くらいにはなれる」と言っています)、恐れ多くも音楽に近づこうとし、真摯に、謙虚に、そのわずかなひとかけらを切り取って、僕らにも見えるようにしてくれている。だから、彼のことを本当にわかろうとするなら、そのひとかけらではなく、彼が見たであろう音楽の姿そのものに近づかなければならない。
見えている木々が、森の一部であるように。

―――――

音楽はまた、燃え盛る炎だ。そこにあるようで、ない。でも確かに暖かい。
不断に消滅と生成を繰り返す、我々の存在そのものだ。

だから、我々の存在に究極的な原因や理由が無いように、音楽にもそれが欠けている。
にもかかわらす、在る、だからこそ、スゲー。

だから僕らが云々できる音楽というのは、音楽が映し出した影か、音楽が及ぼした作用、なんじゃないだろうか。僕らは軽々しく、音楽、音楽と言うけれど、ほんとのところ、音楽の正体を見たことがある人なんかいるのかい?見たこともないものを、よくそれだけ饒舌に語れるよなあ、あなたが見たのはほんとに音楽かい?(お前だよお前、え?オレ?)と、思ったりもする。

こんなに音楽に溢れた時代はいまだなかったと言われる。我々の時代は音楽に飢えていた、と。
だけど、僕はそうじゃないと思う。今の時代は、音楽に溢れてなんかいない。今ほど音楽に飢えた時代はいまだなかっただろう。僕たちが音楽だと錯覚しているものは、音だ。音楽じゃない。一見音楽のようだけれど、音楽のような形をした音だ。音楽じゃない。

音楽を、それも生で聴けるような機会は、残念だけど、それほど多くない。
僕も数回しか聴いたことがないと思う。僕の記憶はあてにならないけど。

垂涎の響き

私がアンサンブル・リーダーを務めさせていただいております、ヴォーカル・アンサンブル アラミレの定期演奏会が来週に迫ってまいりました。

演奏会の詳細はコチラ

きれいなチラシですよね。メンバーのH野さんが作ってくださいました。
今回のテーマは、「主の割礼の祝日の晩課」です。
例年はミサの形式で演奏していますが、今年は晩課の形式に挑戦します。
晩課で特徴的なのはなんといっても詩編唱でしょう。
交唱形式で、この度の演奏では男女に分かれて歌いかわします。
歌いかわすというか、唱え交わすって感じでしょうか。
同音連打を基本とした本当にシンプルな旋律に、詩篇のテキストが淡々と唱えられていくさまは、日本人にはお経を想起させることうけあい・・・。
でも安心してください!以前のブログでも書いた通り、お経よりぜんっぜん短いです!(笑)
瞑想的な詩篇唱で、気持ちよくて寝ちゃうかもしれませんが、モテットではお目覚め下さいね。ジョスカンの傑作モテットですので。
後半は作者不詳の賛歌、ラリューのマニフィカトを演奏します。
お客様の目に触れることはないかもしれませんが、この二つの楽譜には、僕がカリグラフィーで書いた楽譜が含まれています。
カリグラフィーについてはコチラ
お客様の目に触れることがないのが残念なので、ここに載せちゃう(笑)

賛歌の第4節、フォーブルドンで演奏します。
{4E85F748-7451-4C26-AEF2-043EDEC93F61:01}
マニフィカトの奇数節、単声で歌う部分です。
{AF80B190-39BA-4DE6-82FC-F39399FAD671:01}

さて、先週末本番の会場、大森福興教会にてリハーサルをしたのですが、ほんと、よだれが出るような夢のような響きでした。

こんな感じです。カテドラル程とまでは言いませんが、残響がとても豊かで、まるで大浴場のよう・・・。

今年のアラミレは例年の2・3割増でうまく聞こえるでしょう(笑)

夏の広島とバッハ

なんだか凄い経験をしました。

本番の2日前あたりからだんだん手がしびれてきて、本番でその痺れはピークに。
初めの4小節で手の感覚が全く無くなって、手首から先がどうなってるのか分からなくなりました。
ページをめくる時だけ感覚が一瞬戻って、というかページに触っている部分だけが生きているような感覚で、紙から手が離れるとまた手の実体が無くなりました。
視野もだんだん狭くなってきて、みんなの顔も、3人ずつくらいしか見れなくなってきました。
不思議とそれに反比例するようにして、聴覚が鋭さを増していき、今まで感じたこともないくらいクリアーに音が耳に入ってきました。
日光真光教会という場所がそうさせたのか、あるいは8月という季節がそうさせたのか。
僕たちが合宿に入ったのは広島県人にとって素通り出来ない、1年で最も大事な日でした。
母親から用も無いのにメールが来るのは、誕生日とこの日くらいです。最近は誕生日も怪しくなってますが(笑)
実体験を語れる方が減って、被爆の実情が次世代に伝わりづらくなっていると言いますが、少なくとも僕は、ありありとした恐怖の実感を、原爆に対して持っています。
思い出すだけで、全身総毛立つような、唇が震えるような思いがします。
それほど広島の原爆教育、平和教育は凄まじいのです。ほんと気合いが入ってます。
バッハがあの4小節に込めた祈りは、大いなる力に為すすべもなく頽れる全人類の叫びです。
一瞬にして黒い影になった、炭になった、全身火傷で川に飛び込んで死んだ、後遺症に今も苦しむ、ヒロシマの犠牲者の叫びです。
ほんとに凄い曲です。
そんなことを考えていたら、4小節で私の意識はどっかへいってしまいました。
ほとんど無意識で振っていたので、その後の事はほとんど覚えていません。
Christeの後ソリストが動くのが遅いなと思った事や、Qui tollisの時ソリストに被ってN田君が全然指揮見れなくなったり、そういう事は覚えてるんですけどね。
なんか暗くなってきたな。怖いな。