光岡英稔 韓氏意拳講座|6回目

先週土曜日、久しぶりに韓氏意拳の講座に行ってきました。私去年会員になってたんですが、全然都合つかなくて、会員用の講座を受けられたのは今回が初めてでした。

午前が非会員でも参加できる初級講座、午後が会員向けの初級講座でした。

今回も自分のメモのため、またこういう世界があるよっていう紹介のため、レポートを書いていこうと思います。

あの、ほんと私が参加してるくらいなので、ハードルはかなり低いですよ。どなたでも参加できます。

ここでしか学べない、ほんとうに大切なことを学べるので、よかったら一緒に受講しませんか。


以前のレポートはこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔 BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔 韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO
光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI
光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目 https://is.gd/YmZ2Yc
光岡英稔 BUGAKU講座|9回目https://is.gd/BnOQit


韓氏意拳という体系

午前の講座はいつものように、中国文化圏でどのようにして韓氏意拳が生まれ、これがどんなバックボーンを持っているのかについての講義から始まりました。

そしてこの天才が作った体系を私たち普通の人が受容するためには何が必要なのか。

まずは根本のコンセプトに対する理解、そしてこれを生んだ人々の身体観へのアプローチ。

ある思想を理解するためには、理解する側の変容が必要であると古東哲明先生が言っていますが、それを身体ごとやるという感じです。これを作った人の身体観へのシンパシーなしにこの体系を身に着けることはできません。

また中国文化圏における身体観を問う前に、人間、人類、ヒトとしての身体観を問うことも必要になります。

それもまた中国文化の考え方を引用しながら、人間が四足歩行から二足歩行へと推移していった過程でどのような変化があったかをみていきます。

そこで実際四足歩行の身体観とはなんぞやということを実際四つ足で歩いてみることによって経験していくのですが、この稽古は物凄く効果があるんですけど場所を選びますよねえ。

普段からやりたいとは思うのですが、家の中は狭いし外でやると通報されそうだし、どうしたもんかと思っております。

四足歩行には交差歩行、同側歩行、前後歩行とあるのですが、この順番に安定性が減って動力が増します。

つまり交差歩行は安定しているけど動力は小さく、前後歩行は不安定だけれど動力が大きい。

やってみて感じたのは、前後歩行(カエルとかウサギのような感じ)だと、1歩で止まるのが凄く難しい。1歩進むと2歩3歩勝手に進んじゃう。1歩で止まるのはなかなか努力がいりました。

印象的だったのは同側歩行にバリエーションが多いということ。受講者の同側歩行を見ていると、歩行形態は同じなのに、歩幅とか、前後どちらの足が先に浮くか、どちらの足が先に着くかなど、見た目に違いがはっきり出ていてとても面白かったです。それぞれが持っている集注観が違うからかと思いましたが、加速しようとしているか、減速しようとしているかによっても変わるそうです。

あと今回もあえて間違ってみるという稽古をやったのですが、これがもう笑っちゃいました。

老子の教えで「万物は陰を負いて陽を抱き 冲気を持って和を為す」というのがありまして、その通りに四つ足で歩いた時と、その教えに背いて陰を抱いて陽を負いた時の違いをみるのですが、もう老子先生ごめんなさい二度と教えには背きませんって感じでした。手も足も出ないとはこのことですな。


「二足で立つ・歩く」とは

午後のクラスの前に、みんなでお弁当をご一緒したのですが、そこでの雑談も楽しかったなあ。基本私が光岡先生を質問攻めにしてたんですが笑。

光岡先生のハワイ時代のエピソードはもう漫画みたいで面白いです。あんまりここに書いていいような内容ではなかったような気がするので、気になる方は個別にお問い合わせください笑

午後は韓氏意拳の前身(?)となった心意拳、形意拳について。

心と意の違いとは。

私の印象では、なんとなく「意」の方がとらえどころがあるというか、具体性を帯びている感じがして、「心」のほうは、もう茫漠としてわからんなあという感じがしてました。心ってなんなんでしょうね。

意拳は意味が分かるけど、心拳だとちょっと私にとってはよくわからない。と思って検索したら心拳というのもあるんですね。失礼しました。。。

形意拳の名前となっている「形」はまさにかたち、構造のことを指します。こちらはもうこの上なく明確ですね。

ただ、どういう形が自然で、どういう形が不自然なのか、を問う時に、それが中国武術の中での自然なのか、アジアや、アフリカ、ヨーロッパだとどうなのか、人間、人類としてどうなのか。

というところで、また人類としての自然な「立つ形」についての稽古に入りました。

膝で足先が隠れるまで腰を落として、その時の脛の角度と同じ角度になるまで上半身を前傾していくというのがその形で、これは以前にもやったことがあったし、出来てると思っていたのですが、どうやら上半身の角度が甘かったらしく、また上半身の角度をつけようとすると腰の位置が下がりすぎてしまうということになっていました。

それをこう光岡先生がこっちこっちって手で矯正してくださるのですが、センセーアタシの腰はそっちには曲がりません!!って感じで超きつかったです。

安定した形というのは必ずしも楽ではない。少なくとも我々にとっては。

稽古を積んでいくとこの形が楽になっていくのだろうと、これは正座の稽古でも同じですね。

我々にとっては「苦」だけれど、100年さかのぼればこの形は「楽」であったのだと、電車の座席に正座で座っていたおばあちゃんが教えてくれます。

武術の場合、安定して立つということは前提にはなりますが実際には動けなければなりません。(けど立ててもいないのに動けるわけなんかないとも言えると思います)

四つ足の歩行形態の時にも確認しましたが、運動性は安定性と反比例します。動こうとすると不安定を作らなければならない。安定した立ち方ができても、動いたときに不安定になってしまうなら武術としてはマズい。動けるけど安定しているという矛盾をいかにクリアするか。

ということで二つの方法を学びました。安定した形のまま、站椿の結束式の時のように傾斜をつける。そうすると安定した形のまま勝手に身体が前に進みます。

もう一つは一瞬不安定を作ってすぐ安定に戻るというやり方。これはかなり難しかったです。

安定した形を作るときは、上記の老子の教えの通り、陽の面を観るのですが、動き出そうとするその瞬間に、ほんの一瞬陰の面を観る。その不安定を利用して動き出し、瞬時にまた陽の面に戻る。

相当観法の稽古を積まないとこのスピードではできません。

私の場合ですが、陰の面から陽の面に戻るのが遅くてうまくいきませんでした。

ここまでで午後の講座が終わりました。

午前中から午後にかけて四つ足から二足に進化して、立って数歩歩く、ということを学びました。

これらは韓氏意拳の体系そのものではないですが、そこに足を踏み入れるための基本、二足歩行の人間として根底にあるものです。

そこに中国文化圏の考え方でアプローチしていくというのが、光岡先生の韓氏意拳初級講座なのだと思います。

午前午後を費やして、ついにこの日は挙式(站椿の最初)も前擺(形体訓練の最初)もやりませんでした。

けど足腰ボロボロになりました。笑

立って歩いただけですよ!立って歩くだけでこんなことになりますかね!

いやほんと。早く立って歩けるようになりたい。

かといって四つ足で歩けるわけでもないから赤ん坊以下だな笑

月曜から5日連続カペラの稽古なんですが、普通は座って歌うんですが、例の立ち方の稽古をしつつ歌っています。おかげさまでなぜか筋肉痛はなく、足がボロボロのままです笑

立つこともできないのに歌なんか歌えるわけがないだろうが。という感じですが、精進します。。

カペラは今ベルギーの音楽祭に出品する演奏動画(録画は来週)を製作するためにリハやってます。一般公開はされるのだろうか、、よくわかりません笑

あと再来週はSalicus Kammerchorでも演奏動画を撮ります。こちらは立教大学の米沢陽子さんの研究発表のための動画で、こちらはいずれ大学のHPで公開されるはずです。

こういう状況で、お客さんを入れてのコンサートよりこうした録画の機会が増えてきましたね。

まだまだ全然慣れないですが、ひとつひとつ乗り越えていきたいです。

「引きこもるんだよ、身体に、足の輪郭に、やることは山のようにある!(外的要素に)反応している暇はない!」

光岡英稔 BUGAKU講座|9回目

昨日、久しぶりに光岡先生の講座に行ってまいりました。前回が2月だったので4ヶ月ぶり。なかなか仕事で休日が空かないので、今回平日夜にグループレッスンを開講してくださってとても助かりました。

それでもキャンセル待ちだったので、講座の人気ぶりが窺えます。

雑談的な内容も含めて今回も大変刺激的でした。

書ける範囲でレポートしていきたいと思います。

いつものように、このレポートは全く私櫻井元希の主観によるものであり、同じ講座に参加されている方でも、へえ、そう感じる人もいるのか、というような内容のものです。

もし少しでも興味が湧くようであれば、講座に申し込んでみてください。

少なくとも今よりちっとは楽になりますよ。

韓氏意拳講座情報 http://hsyqjapan.dreamblog.jp/

BUGAKU講座情報 http://bugakutokyo.blogspot.com/2018/01/blog-post_22.html


以前のレポートはこちら↓

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講座が始まる前に、受講生同士で話しているときに「Eテレ見ました」とか「You Tube見ました」とかおっしゃっていただいてとても嬉しかったのですが、徳久さんがコエダイの練習会の動画をアップしてて↓

この動画の中で、「合ってる」と思ってる音程から上がったり下がったりするということをやったのですが、これをご覧になった方から「なぜあえてずらすんですか?」というようなことを質問いただきました。

自分の音を出しながら聴くのって実は相当難しくて、絶対に合ってる自信があっても録音聴いたらめちゃくちゃってことがよくあります。なので鬼のように絶対にブレないキーボードの音に合わせて、唸りを聞きながらあえて音をずらしたり合わせたりすることで、「合ってる」という状態と、「合ってない」という状態を知る、ということをやるんです。

というようなことをお話したら、内田さんが「武術の稽古でもやりますよね、あえて間違う、間違うということを知る」とおっしゃいました。

で、それを聞いてか聞かずか、講座の中でまさにこれをやったんです。

「観て」やったときの所作と、「意識して」やったときの所作の違い。

「観る」と「感覚する」と「意識する」をことわけるのってすごく難しくて、習い始めてからずっと大きな課題としてあったのですが、これまで「意識」をしないようにしないようにという稽古ばかりしてきて、これらを切り替えるような稽古はしてこなかったんです。

なので、むしろ「観てる」状態から「意識する」状態に入るのが難しくて、「意識する」ってなんだっけ?とか思いました笑。ただこれも層を分けて、「観る」から「感覚する」を経由するようにすると「意識する」に入れて、とてもわかり易かったです。


というのが雑談からの流れでの気づきだったのですが、講座はまず「苦と快」というテーマから始まりました。

以前も、苦は自然か、快は自然か、というようなテーマがあって、ぼんやり頭の中には残っていたのですが、少し理解が深まったように思います。

本能的には、苦は悪とされ避けられる、快は良しとされ求められる、という傾向にあるが、一方で快ばかり求めていると怠けてしまう、苦を経なければ向上はない、というような、苦を求め、快を避ける考え方もある。

詰め込み教育かゆとり教育か、みたいなもんで、両方失敗してんじゃん?と。

というところで新たな視点、その「苦・快」は自然と生じたものなのかどうか。

「不自然な苦、人為的な苦」

「不自然な快、人為的な快」

これは環境操作、またその操作された環境に適応するための身体操作から生まれたもの。自然界にはない「快・苦」がある。

例えば正座でなぜ苦が生じるのか。じっとしてるだけなのに。殴られて痛いならわかる、殴って痛いならわかる、なぜ座っているだけで足が痛くなったりするのか。これは自然の苦なのか。

電車の座席に正座で座っていた昔のおばあちゃん。呉服屋の番台で一日中正座で帳簿をつけていたおかみさん。彼らは苦行をしていたのか。

彼らにとってはそれが「快」であった。それが私たちにとって「苦」であるのはなぜか。

古来からの武術にアクセスしようとする時、少なくとも正座が「快」である身体観にシンパシーを持てるかどうかというのは大きな分岐になりそうだ。

結局の所「快と苦」は同時に存在し、移ろうものである、快がなければ苦はなく、苦がなければ快はない。

そう、クヴァンツさんも言ってますね。

「決して切断されない快楽は、われわれの感受性を弱め衰弱させ、快楽をついには快楽でなくさせる。」

というところで正座、合掌での観法に入りました。

あらかじめたてた問いに対して身体に答えを聞く、という感じの流れで、この日の観法も一味違うものになりました。

私も毎日正座、合掌で観法はやってるのですが、やはりもっとじっくり時間をかけてやらなきゃだめだなと思いました。

正座も最初の頃は座った途端に「苦」がやってきてたのですが、1年位やってると、むしろ座った瞬間は気持ちいい感じで、ずっとそうしていたいと思うほどです。が実際は5分もやってると足が痺れ始めて「苦」が生じてきます。

このときもそんな感じで5分くらいで痺れ始めたのですが、不思議なことに観法が深くなっていくとその痺れが完全に消えました。

その後どれくらい経ったかわかりませんがまた「苦」が生じ始め、しかしそれはいつものような痺れではなく、熱くてジンジンした感じ?いつもはむしろ足が冷たくなっていく感じで痺れてくるのですが、ちょっとこれまでにない体感でした。

それでまあある程度の苦は生じるものの、耐えられないほどではなく、傍らに置いておける程度のものでした。

後でうかがったのですが、観法をどこから始めるか、どう進めるかは、決めているときもあれば決めてないときもあり、決めていても始めてみたらそうならないということもあるそうです。この日も最初左肘から入ったのはその時級にそうなったそうで、かなり即興的要素が強いようです。


その後この観法を使った稽古に入るのですが、最初にかなり深く観法をやっておくと、その後の稽古で身体を観るスピードと深さが全然違います。普段の自分ならあと5秒必要だな、とか思いながらやってました。

これ以降の内容はまだオープンにはなっていないようなのですが、間合いについて教わりました。間合いは距離とは違う、距離は同じでも間合いは違うという現象を体験しました。

左右観の違いみたいなことはずっとテーマになってるように思いますが、それがより複雑化して、発展していってるような印象を受けました。

今後も追っていきたいです。


あとは完全に蛇足ですが、着替えてるときに、あ、この人ヒモトレしてるんだな、とか、あれ、これマンサンダルじゃない?とかそういうものが普通になっているこの界隈素敵やなと思いました。

私も今マンサンダル注文中なので楽しみです。

ヒモトレについて https://www.kablabo.com/2016/06/post-236.html

マンサンダルについて https://www.mansandals.net/concept/

光岡英稔 韓氏意拳講座|5回目

少し間が空いてしまいましたが、先日行ってきた光岡先生の講座を振り返っていきたいと思います。

以前のレポートはこちら↓

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光岡英稔 韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
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光岡英稔 BUGAKU講座|8回目 https://is.gd/tbIYiI

なぜか私なかなか予定が合わなくて、せっかく会員になったのにいつも基礎、養生の講座にしか出られておりません(涙)

今回も養生のクラスでした。


中国文化圏における養生観

韓氏意拳における養生とはなにか、養生観とはつまり自然観であり集注観ということ。

自然とはなにか、何にどう集注するのかということがつまり養生を考えるということなのだと思います。

「両儀」、「四象」における陰陽から直立二足歩行である私たちの身体観を顧みていきます。

両儀の陰陽は四足歩行の陰陽、四象の陰陽は二足歩行の陰陽ということで、2が4で4が2というのがなんか面白いですよね。

ようするに四足のときは背中側が「陽」であったのに、二足になってお腹側が陽面化した。そのことによって不都合が生じている。

背中側を陽の面としたまま直立した状態というのを、後足歩行(姿勢)というそうで、四足歩行の動物がたまに後ろ足で立っている状態のことをいいます。

つまり四足と二足のちょうど間のような身体観、それが自然、それを求めていく、ということなのだと思います。

BUGAKUでやっていることも結局はやり方が違うだけで同じところを目指しているのだと思います。

五体投地も結局四足と二足の身体観を行ったり来たりしてるということで、同じ意味なのだそうです。

それで実際四足歩行を練習したのですが、私多分4回目くらいで、今回初めて、これが四足の身体観か、というのがわかった気がします。

いや、わかったというか、これまでわかってなかったんだなということがわかったというか。。

四足の姿勢から後足姿勢、二足の姿勢へと移っていく過程で、どの段階でお腹側が陽面化するか、その身体観を行ったり来たりすることで、四足と二足の違いが見えてきたように思います。

今回新たに教わったのは、四足歩行のとき、目の前か、見えないほど遠くが観える。二足歩行のときは何歩か先が観えるというもので、たしかに!と思ったのは、私毎日五体投地を3回だけやってるのですが、3回しかやってないにもかかわらず、今何回目だっけ?ってのがいつもわからなくなるんです。3が数えられない。それは四足の身体観が影響していたのかという、エウレカ体験でした。

それで最近高橋透先生にならったしゃがみ深呼吸(私が勝手にそう呼んでます)も明らかに四足の身体観だなと、しゃがんで深呼吸している時、あからさまに背中側に気がいきます。お腹側には全然いかない。

呼吸という観点は歌にもものすごく大きな影響を与えると思いますが、四足の呼吸観と、二足の呼吸観はまるで違います。これは習ったことではなく、やってみた私の経験ですが、四足のときは上下に呼吸してる感じ、二足のときは左右に呼吸してる感じです私の場合。

これも境目を探ってみると面白い、二足と四足の中間の呼吸が観えてくるでしょうか。


挙式

というのは結婚式のことではなくて、韓氏意拳の基本的な稽古法である站樁の一番最初の式です。

どういうものかというと、「立って、手を挙げる」というものです。

なんじゃそりゃあという感じがすると思いますが、やってみればわかります。「立って、手を挙げる」ということがいかに難しいかということが。

ちょっと私一生かかってもできないかもしれない。と今回思いました。

つまり韓氏意拳で言う「立って、手を挙げる」というのは、「自然に」立って手を挙げるということで、これがもう本当にできない。

今回初めて光岡先生に手をとってもらって、挙式を行うということができたのですが、ほんとに素晴らしい経験でした。

手を挙げようとしなければ手は挙がらないし、手を挙げようとすると手は挙がらないんです。

何言ってるかわかんないですよね笑

手を挙げよう、という「意」はないとあかんけど、それが「意識」に変わった瞬間に手が挙がらなくなる。つまり自然がどっかいっちゃう。作為になっちゃう。

「意のままに」というのがほんとその通りという感じで、意に任せられればいいんですけど、生活習慣によって、「意」が「意識」にすり替わってしまう。

頭で意識した途端に身体はバーチャルになり、自然を失う。

それで反対に、自然とはどういうことかというのを教わるため、光岡先生の手を取らせてもらって、挙式をやってもらいましたが、これがもう本当に凄い。

めちゃんこ凄い。

質感がまるで違う。

まるでトコロテンとナマコの和え物のような、違うあいのこのような食感、違う触感でした。

今回得たことで一番大きかったのはこれでした。

「こ、これが手を挙げるということか・・・」

という体験でしたね。

もう、ようするに私は今まで、立つことも、手を挙げることすらもできずに指揮を振り、歌を歌っていたということです。

挙式って韓氏意拳の基本のキのkみたいなことですから、せめてそのくらいはできるようになりたい、しかしできる気はしない。と思った回でした。

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

先週土曜日、久しぶりにBUGAKUの講座を受けてきました。

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最近土日の予定が全然合わせられなくて、金曜夜の韓氏意拳の講座に行くことが多かったので、今回BUGAKUはほんと久しぶりでした。

それも昼間は仕事だったので、夜だけの参加になってしまって、BUGAKUの講座は午前午後の流れがあっての夜の講座なので、ついていけるかかなり不安でしたが、せめてその場の空気だけでも吸いに行こうという思いで参加しました。

結果本当に行ってよかった。

生きながらにして生きていることを思い出す営みが芸術だと思っているのですが、この講座はまさに芸術でした。

特に観法の時間がプレシャスすぎでした笑


身と骨

BUGAKUの基本として、四方の「からだ」というのがあります。からだという漢字は今の日本では「体」という字を使いますが、古くはもっとバリエーションがあったそうで、「軆・躰・體・骵」と書いたそうです。

この4つは自分の四方のそれぞれの経験を表したもので、右前を軆、左後を躰、左前を體、右後を骵といいます。

そんなわけで身か骨かというのはひとつのポイントになってるっぽい(よくわかってない)のですが、今回は骨に注目して、これを経験的身体として捉えられるかどうかというのをみていきました。

経験的身体というのもまた説明が大変難しいのですが、物理的身体、あるいは恣意的身体(頭で妄想した身体)とは違う、経験としての身体ということです。

その喩えとして、「鏡を見たことのない人間の身体性」というのが挙げられていて、これはわかりやすいと思います。客観的に外から見た自分、というのを知らない、主観とも違う、経験としての自分のからだ。

雲を掴むような話なのですが、やはり説明してわかるものではなく、経験してみないとわからないことだと思います。

あ、今更ですがいつもの前置きを。説明してもわからないことを私は今文字にしています。

目的は自分の経験の整理がメインで、そこから生まれた思考のメモ、そしてなんかわからんけど面白そうという人が引っかかってくれないかなあという淡い期待です。笑

このどうしようもない駄文から何かを得ようとは思わないでください。経験を伴わずに言葉から掴み取った解釈は、書き手の経験からは程遠いものになります。

多分、私たちは「古典」を徹底的に誤解したまま理解した気になっている。

書き手の経験的身体へのシンパシーなくして(つまり鏡を見たことのない人間への共感)、その人が言わんとすることは理解できない。

えー少し脱線したようなしてないような。

私たちは身体を物理、概念、恣意ではかることに慣れすぎている。

それをハッキングして経験の世界へと誘う稽古が必要だということです。

というわけで今回は骨に注目して観法を行いました。

骨を一本一本観ていく。多分自分の骨を見たことのある人はそう多くないだろうし、一本残らず全部見たという人は皆無でしょう。見えないものを観る、というのが稽古の大きなめあての一つだと思います。

この「観法」、私も朝のルーティンで立ちしゃがみの型とともに毎日やってますが、今回の光岡先生の観法はほんとに芸術でした。

観れば観るほど身体が喜んでいるような、自分の経験を回想しているような、祖先とつながるような、そんな時間でした。

あ、そう、経験というのは3種類あるんでした。個人の経験、種の経験、生命の経験。生命の経験はちょっと難しくてまだわからないけれど、種の経験はわかります。種として、先祖代々の経験です。前世の記憶というとオカルトっぽいですが、おばあちゃんの記憶というと途端に現実味を持ちますよね、私たちでも。

おばあちゃんの経験が私の中にあるんですね。そうした種としての経験の蓄積にアクセスするって感じでしょうか。

現代人にわかりやすく言うと、「本能」とか言われてるもんに近いかもしれません。近いだけで全然違うと思いますけど、あえてわかりやすく言えば。

そうした経験が骨の一本一本にある。一本の骨には一本の骨の世界がある、という言い方もされえていました。

コンクリの床に裸足で正座して結構長い間観法やってましたが、不思議と今回は脚が痛くなったり痺れがきれたりということがありませんでした。

これまでは結構跪座に時々しちゃったりしてごまかしてたんですけど、今回は大丈夫でしたね。うむ。日頃の稽古の成果かしらとちょっと嬉しかったです。


線の世界

前回BUGAKUに参加したときに、自分の後ろ側に細い棒を2本おいて、定位になったり不定位になったりということをやりましたが、それを更にわかりやすくした試し稽古をしました。

右足の下に縦に、左足の下に横にマスキングテープを貼ると、定位、逆にすると不定位になるというものです。

右は縦気、左は横気なのでこれはわかりやすい。

傾向に沿っているとき定位する、そうでないとき不定位になると。

そしてこれをテープなしでやる。右足を縦に切って左足を横に切る、という感じ。

「線の世界に入る」だとかなりちんぷんかんぷんでしたが、これはやってみたらわかるという感じで腑に落ちました。

この定位・不定位を瞬時に切り替えながら所作を行うと。そして流派によってこのバランスが異なる、カポエイラは不定位の割合が大きいし、日本や中国の武術は定位の割合が大きい。ただし、どっちかだけというなは有り得ない。それは武術にならない。

音楽の場合どうでしょうか。以前弦楽器や管楽器の楽器の持ち方が不定位だというようなことを書きましたが、おそらくこれも音楽の種類によるでしょうね。

ルネポリ歌うときは定位の割合が大きいだろうし、バッハを歌うときは不定位の割合が大きい。そして音楽でもどっちかだけということはないでしょうね。

バランスとスイッチングが肝になるんだと思います。


「気」は流れない

これも私ちゃんと理解できたわけではないですが、一般に気の流れとかなんとか言われてるのは一種の錯覚なのだそうです。

気は偏在し、動かない。空間のようなもの。空間は定位し、移動しない。

しかし動いて見えるのは感覚が動いているから。動いていない「気」を動いていると錯覚する。

うん。これ私の経験と結びついてないからわかんないわ。

しかし結構衝撃的なパンチラインですよね。気は流れない。

普通に言いますもんね、気が散る、気が向く、気が回る、気が進む、気を引く。なんかこれ気が動くもんだという前提ですよね全部。

今回改めて思ったのは、教えるってことは、経験のおすそ分けのようなもんだということ。知識の切り売りでは教えたことにならないんでしょうね。

自分の経験を、相手にも経験させる。

その上でその経験に結びついた理を伝える。

本読んだだけではわからないことがあるっていうのはそういうことなんだと思います。

身体が経験するかどうか。

実感のない言葉は響かないってのにも似てると思いますが。

あとあれだ、古東哲明先生の言葉で「ある思想をほんとうに理解するには、理解する側の変容が必要」というのがあるんですが、これもそういうことですね。

理解する側と身体経験を共有していないとなにもわからん。

というわけで、私と身体経験を共有してほしいので、皆さんも是非一緒に光岡先生の講座に行きましょう!!

城南治療室 院長 高橋透 『身体は語る』

土曜日の午前中、山形の施術家、高橋透先生の講習会に参加してきました。

高橋先生は韓氏意拳の教練でもあるかたで、この度縁あって参加させていただくことになりました。

内容がかなり専門的だったので細かいところまではよくわかりませんでしたが、かなり得るものもありました。

ここに書くのは私の曖昧な記憶と解読不能なメモをもとにした感想文です。文責は私にあることをお断りしておきます。


施術者にとって、これでよしとする基準はなんなのか、患者にとってのゴールとはなんなのか。

痛みがとることが目的なら痛み止めを打てばいい。

モルヒネを打つのが一番確実だ。患者はそれを求めているのだろうか。

痛みなく、思い通りに身体が動くというのはどういうことなのか。

それを高橋先生は「情報伝達がうまくいっているか」というように仰っていました。つまり身体からの情報が脳にうまく伝わっているか、脳からの情報が身体にうまく伝わっているか。

要するに身体の中でコミュニケーションがうまくとれているかどうかというのが問題になるのだと思います。

それを判断するのがまた難しく、筋力検査、可動域でそれを調べることをやっていましたが、素人にはとても真似できないので、そこは手を出さないことにします笑

施術者でも、この判断が正確にできる方は少ないのだそうです。無自覚的であれ、恣意的な検査をしてしまって、正確な結果が得られないとうことがよくあるそうです。

これ武術の世界で、先生の技を受ける弟子が、無自覚に効果を大きくみせてしまうという現象に似てます。

似てますが、施術者の場合は施術者本人がやってしまうということなんですね。

それをやられると施術を受けた側は、良くなってないのに良くなったと錯覚する。あるいは余計な刺激が与えられることによって前より悪くなるということさえあるのだそうです。


この日私は実験台をやらせていただけまして、ちょろっと声を出して、施術を受けて、またちょろっと声を出してビフォーアフターをみるということをやらせていただきました。

施術自体はもう全く何をやってるのかわからないちょちょっと30秒くらい触っておしまいというもので、え?なにそれ?そんだけ?って感じなのですが、たしかに身体が変わってるんですよね。

面白かったのは、発声体感は変わってないのに音色が変わっていたというところです。だいたいなんかこう変化があるときって、声の出し心地が変わるのが普通なんですけど、普段から自分の身体の変化にかなり繊細になろうと努力している私からしても、体感の違いを感じられませんでした。

けど、声が変わってる。

これがどういうことなのか、またしばらく考えてみます。

セルフケアも教わってきたので、また朝のルーティーンが長くなります笑

新しい身体になるということはOSのアップデートにちょっと似てて、ほうほうなんか良さそう、きっといいんだろう、使いこなすには時間かかるけど、て感じなんですよね。

しばらく動かしてみて、じっくりまた観ていこうと思います。


今回なにより驚いたのは、本編とは関係ないんですけど、なぜか机の上にずっと口琴、それも山崎口琴が置いてあったことです。

講座で登場するのかと思いきや最後まで触れられなかったので、講座後に、「これ山崎口琴ですよね?」って聞いてみました。

するとなんと高橋先生のところに山崎さんが時々治療にいらっしゃるそうで、お知り合いなのだそうです。

そういえば山崎さんも山形だった。

なんと世間の狭いことか。

なんだか不思議な縁を感じた講習会でした。

またチャンスがあれば参加したいと思います。

講習会の詳細はこちらからご覧いただけます→http://tcacademy.jp/


第2回プレイバックサリクス

https://is.gd/SHnjTq

12月26日(土)20時より
Salicus KammerchorのYouTubeチャンネルにてライブ配信
https://youtube.com/channel/UCeWlQtnOnETy6Q2uZUVq4jA

出演:上田朝子 金成佳枝 櫻井元希 富本泰成

いよいよ今週末です。

出演者の紹介とコメントをSNSで始めました。

よろしければ御覧ください。