いよいよ来週末となりましたこちらのコンサートについてお話したいと思います。
なぜタンプーラなのか
グレゴリオ聖歌というのは、その歌唱法というものがほとんど完全に失伝 しています。
10世紀頃に書かれた古ネウマによってその歌い方が書き記されているものの、実際それがどのように歌われていたのかはわかりません。
ネウマの「意味」はわかっても現実としての歌唱がどのように鳴り響いていたかは全くわからないのです。当たり前のようですが。
そこでよく私が引き合いに出すのがこちらの音源
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壮絶ですよね。こちらは最後のカストラートと言われているAlessandro Moreschiの録音で、これがおよそ100年前です。
100年前でこうなのですから、1000年前の歌などというものはもうどんな声でどんな歌を歌っていたのか想像もできません。
というわけで先入観を徹底的に排除してあらゆる可能性を考慮に入れなければなりません。
そこで、なかば導かれるようにして私がたどり着いたのがインド古典音楽 なのであります。
西洋では音楽は単旋律から複旋律(ポリフォニー)へという方向性で変化していきましたが、インドではそうはなりませんでした。インドは今でも単旋律 です。
単旋律のまま進化を極めたとも言えるかもしれませんし、単旋律のあわいを今に残していると言うこともできるかもしれません。
端っこには古い文化が残りやすいというのは日本でも同じだと思いますが、私はかつて西洋にあったものが、少なくとも部分的には今のインドに残っていると考えています。
というわけで(少なくとも現代人の目線からすれば)単旋律が極まり尽くしているインド古典音楽 を学ぶことで、同じく単旋律である、失われたグレゴリオ聖歌の歌唱法について、その糸口が見つかるのではないかと思ったのです。
習い始めて3-4年になりますが、まあほんとにインド人っていうやつああ笑
もうほんとにすごいんすよ。もうほんとに。(白目)
私が知れたこと、感じれたこと、現状やれることはその0.000000000001%くらいだと思いますが、それでも、グレゴリオ聖歌ってこういう感じだったのかもなというおぼろげな像を描くことはできるようになったと思います。
「何が」というのはほんとに書き出すときりがないのですが、ひとつには西洋の「旋法」 という仕組みの特異性が挙げられます。
西洋の旋法は、音階を固定して終止音finalis(と軸となる音)を変えることによってその終止音finalis(と軸となる音)の周りの音の構造を変化させるという仕組みを持っています。
これ西洋音楽をやってると当たり前のような気がしますが、インドのサレガマを知ると、むしろ西洋のやり方のほうが不思議なように感じます。
インドではサはサで固定 されていて、周りの音を変化させていくことで音階が変わるんですよね。
西洋では終止音finalisがレになったりミになったりファになったり するわけで、これよく考えたら結構複雑なんです。(だからこそ面白いのは、シラブルそのものが変わることによって、終止音自体のキャラクターがまるで変わってしまうということ)
でわたし達は普通、レ旋法でDをfinalisにすると、ミ旋法はEをfinalisにしますよね、ファ旋法はFでソ旋法はG、という具合に。
そうすると同じ音階上で「高さが変わってる」と感じてしまって、旋法の違いがよくわからないんです。
なので私はfinalisの音高を(自分のキー)固定して、それをレ旋法のときはレと読み、ミ旋法のときはミと読むということをしています。
そうするとfinalis周りの音構造の変化が感じやすく、旋法の違いが明確にわかります。
この発想はインド古典音楽的です。
そしてもう一つはドローン 。ドローンというのは持続音のことで、インドではこれをタンプーラ という楽器が担います。
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インド古典音楽ではほとんどいつでもこのタンプーラが鳴り続けています。(後ろのでかい楽器です)
これうちの子です♡
タンプーラがあると何がいいかというのは、鳴り続ける音があることで、その音に対して旋律がどうなっているのか というのが非常にわかりやすいんです。
歌ってる方も、聴いている方も。
帰ってくる音(finalis)が鳴り続けているので、今どこにお出かけしていて、どのようにしてその音に帰っていこうとしているのか。そのありさまが非常によく分かる。
逆にこれなしに、曲中でどの音がfinalisなのか判断するのは聴いてる方にはほとんど不可能です。だから今何旋法を歌っているのか、聴いてる方は最後の音を聴くまでわからない。(その曲を知ってるとか、よほど歌い手がうまくてその上聴いている方もそれを感じ取れるだけの文化的土壌があれば話は別で、私が目指しているのはまさにそこなのですが)
これドローンが鳴ってればまるわかりです。
で持続音(ドローン)というのはどんな楽器や声でやってもいいのですが、タンプーラという楽器はほんと「これだよね」っていう固有の魅力があります。
そこらへんは寺原太郎さんが詳しく書いてくださっているので割愛しますが↓
https://note.com/srgmtaro/n/n011b28e90c1e
まず持続音なのに撥弦楽器 を使うというのが面白いですよね。発想として。音を持続しなきゃいけないのに、出した音が出した途端に必ず減衰する撥弦楽器を用いるという。
しかしこれによって有機的な場のうねりのようなものが生まれて、音楽がその結果自由に羽ばたけるんです。
同じことをオルガンとかでやってみると違いはよくわかります。オルガンのほうが圧倒的にドローンに適しています(凄い持続します)が、とても空間をfixするように感じます。
そんなわけで最近私はグレゴリオ聖歌を歌うときはいつでもタンプーラと一緒に歌っています。
なぜ笙なのか
きっかけはこの投稿でした。
もともと友達の知り合いくらいの距離感の方だったので、なんかこう気軽に、いや嘘です意を決して、決死の覚悟でDMしました。
そしたらもう気さくも気さく、なんの障害もなく一緒にできることになりました。
それで企画を進めながら思ったのは、笙ってハルモニウム みたいなもんだよなあということ。
もう一度こちらの動画を貼りますが、
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これの右側で左手パタパタしながら弾いてる鍵盤楽器がハルモニウムです。
小型のオルガンですね。
これが歌に合わせて、ちょっと遅れたり、ちょっと掛け合ったりなんかしながら一緒に演奏してるんです。
この役割を笙でやったら、インド的であり、日本的であり、実はグレゴリオ聖歌的なんじゃないかということを考えたわけです。
そして実際にはそのような吹き方もしてもらいますし、笙だけ でグレゴリオ聖歌を吹いたり、タンプーラを使わないで(シュルティボックスのように)ドローンだけ やってもらったり、はたまた雅楽の伝統曲と一緒 にグレゴリオ聖歌を歌ったりと様々なやり方で演奏していただきます。
既存曲に合わせてグレゴリオ聖歌を歌うというのは、叔母との声明とグレゴリオ聖歌のコラボでさんざんやってるのでもはや朝飯前です。
そして最近カニササレさんフランスに行かれていたそうなのですが、そのときに投稿されていた動画がまた素晴らしかった。
もうこれ、完全にオルガン ですよね。
オルガン以外のなにものでもないですよね。
そりゃグレゴリオ聖歌相性いいに決まってますよねえ。
なぜグレゴリオ聖歌なのか
嘘だろそこからかよ。この記事長すぎだろ。という読者の罵声が聞こえてきたのでやめておきます笑
細かすぎて伝わらないかもしれませんが、私は楽しいですし、そんなに変なことをやっているという自覚もありません。
イロモノとしてではなく、普通に来てよかったと思えるコンサートになると思いますので、皆様是非お越しください。
お席に限りがございますので、ご予約はお早めに↓↓
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdloXZzCnlSCq5sT2HqsBsCM6Cg4BEkJj5gfc24hYIOPcR1dg/viewform
サレガマパダミサ 〜笙とタンプーラとともに歌うグレゴリオ聖歌〜
12/16(土) 14:30開演 えびらホール
演奏予定曲目:降誕節第3主日のためのミサ