昨日は光岡先生の講座に参加してきました。
これまでBUGAKUの講座3回、韓氏意拳の講座に1回参加してきましたが、徐々に理解が深まってきている感じがあります。
それぞれつながっていて、しかし微妙に切り口が違って、受講生の様子を見ながら進めてくださいます。
武術の講座ですが、殴り合ったりするわけではないので、音楽家の皆様にもぜひ受講してほしいです。気づきを共有したい。
ここで学んだ身体観を自分の音楽活動に活かし、また指導に活かすというテーマは私一人で抱えるには大きすぎる。
以下にこれまで私が参加してきた講座のレポートがありますので、興味のある方はぜひ行ってみてください。
それか一緒に参加しましょう。
BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://00m.in/meqhZ
韓氏意拳講座 https://00m.in/anmad
異なる3つの身体観
今回学んだのは前回の韓氏意拳の講座で学んだ自然体とは何かということに地続きになっていると思われる、3つの身体観についてでした。
1.物理的身体
2.感覚的身体
3.気の身体
下にいくにしたがって意識が対象化しにくくなります。
物理的身体は意識が対象化しやすいということで、意識体ということもできます。
感覚的身体は、実体はないけれど、感覚経験として存在するということは理解しやすい。
そして気の身体というのが、理解しにくいけれど、感覚的身体と物理的身体を生む、感覚以前の身体です。
よく私の発声指導で、「状態が行為を生み、行為が現象を生む」という言い方をしていますが、「気の身体が、感覚的身体を生み、感覚的身体が物理的身体を生む」という言い方もできるかもしれません。
でもどうだろう、感覚的身体が物理的身体を生むというのは違うかも。気の身体が感覚的身体も物理的身体も生んでるような気がする。
で、気の身体というものをどうやって体認するのかというところなんですが、物理的にも感覚的にも同じ状態にしたつもりで、効果の違いを見るというのがとても分かりやすいです。
たとえば左手の甲を前、右手の掌を前にした状態で立って、前から(外力によって)押してもらいます。
この状態は不定位と呼ばれる状態で、外力に対して崩れやすい状態です。
しかし、シラットというの東南アジアの武術の型をひとつ通すと、この不定位の状態が定位します。
また一回普通に立って、今度は方を通さずにさっきと同じ手の形を作ると、またもと通り不定位になります。
本人としては、まったく同じ形(物理的身体)で、感覚的にも同じような感じがしているけれども、違う身体であるということがわかります。
そういうわけで、物理的にも感覚的にも同じであるはずなのに効き目が違う、という不思議な体験をすることで、物理的にも感覚的にも説明のできない身体というものがあるということが確認できるのです。
左右観
左右にはそれぞれ傾向があり、傾向は「気」と言ってもいい。
右=縦気
垂直、沈み、重み、閉じ、まとまり
左=横気
水平、浮き、軽さ、開き、広がり
トラック競技が左回りということともかかわりがあるそうです。左の方に広がっていきやすい傾向があるので。
脱獄犯なんかもほぼ間違いなく左に逃げていくそうです。
そして左の方が動くのに適しているのだそうです。
このことからもヴァイオリン属の構え方が理にかなっているということがわかります。
右手は縦気、沈みこむ傾向があるので弓を扱い、左手は細かい動きに適しているので、弦を押さえるのに適しているということです。
塵浄水の礼
今回初めて、相撲の礼法である塵浄水の礼をやりました。
「型、式、礼法」はいずれも、ある「手順、方向、数、形」を通ることで、その流派、体系に必要な身体観を導き出すものなのだそうです。
だから、その目的は様々。シラットの型の目的は左右の定位不定位を入れ替えるということでしたが、塵浄水の礼の目的は「肚ができること」と「腰が入ること」なのだそうです。
正座した状態で、左肩を右に、右膝を左に押されると、定位しているので動かないように耐えられます。
反対に右肩を左に、左膝を右に押されると、半分以下の力でステーンと転びます。
ところが塵浄水の礼を通った後に同じことをやると、どちらも耐えられます。
シラットは定位不定位を転換するのですが、塵浄水の礼は両方定位するんですね。これはひっじょーに面白かった。
そしてさらに、塵浄水の礼をあえて左右逆に間違えてやると、右も左も不定位になるんです。
これはひっじょーに興味深い、何も起こらなくなるんじゃなくて、両方不定位になっちゃう。
つまり両方定位するための礼法が、両方不定位にする礼法に変わってしまうんですね。
わたくし試しに一回手をたたくところを2回たたいてみました。
そうすると、両方不定位になるのですが、面白いことに、右肩左膝を押されたときに、何もしないときは左膝からスーンって崩れていたのが、左膝は動かないのに、右肩の方がぐらぐらになっちゃったんですね。
武術が型や礼を重視するのはこういう意味があったんですね。
強くなるための型なのに、手順や回数をちょっとでも間違えると、意味ないどころか、逆効果になってしまうんです。
動法と観法
これは講習会後の食事の際にお話しさせていただいたことなのですが、私こういう質問をしました。
「観法ができれば動法は必要ないのでしょうか?」
型とか式とかというのは動法といって、動きを用いて勁道を通す方法、それに対して観法は、動きによらず、自分の身体、気の偏りを「観る」ことによって勁道を通します。
つまり観法によって勁道を通すことができてしまえば、動法によって勁道を通す必要はないのではないかと思ったのです。
光岡先生の答えは、場合による、人に教えるときは観法だけで教えるのは難しい、また、動法の動きそのものが、実践における技術と直結しているので、必要ないとは言えない、ということでした。
確かに観法を人に教えるというのは凄く難しいというか、無理な気がします。動法によって勁道が通ったという体認を経ないと、観法で勁道を通すというのは意味不明だと思います。
それに加えて先生がおっしゃった、動法の動きそのものが技術に直結しているというのがとても印象的でした。
ボイトレでいうと、音階を使った発声練習は動法と言えると思うんです。音型という「型」を使うことで、その型を通る前の状態と違う状態を作り出すという意味でこの二つは共通します。
今まで西洋式、東洋式というように分けていたボイトレの考え方ですが(詳しくはコチラ)、実は両方東洋式の内に入れられるかもしれません。
つまり、動法ボイトレと観法ボイトレ。
音型という一種の「型」を使って勁道を通すのが動法ボイトレで、型を離れて身体を観ることで勁道を通すのが観法ボイトレというわけです。
そしてこの音型は、勁道を通す役目を果たしながら、実際の音楽の中でも現れるので、つまり実践でそのまま使えるわけです。
この点でも動法に対する光岡先生の考え方と一致します。
というわけで今まで私のボイトレは西洋式、東洋式と2つの異なった系統としてアプローチしてきましたが、一つの地続きのものとして捉えることができるなあと思いました。
更にBUGAKUの指導法もかなりそのままボイトレに応用できるのではないかと思います。
BUGAKUではまず①左右表裏というものがあり、自然な状態で人間がどのようなときに定位し、どのようなときに不定位になるかということを教えます。そして②それは「型、式、礼法」という動法を通すことによって変化するということを教え、それから③動法を通すことなしに、「観法」によってもそれが可能であるというところにいきます。
これはそのまま
①現在の発声状態の把握
②動法(音型練習)によってそれを変化させる
③動法によらず、観法によってそれを行う
と置き換えることができそうです。
メタ発声という言い方で観法的ボイトレを捉えていたので、どちらかというと音型練習の前に観法をやっていましたが、むしろ逆のほうが効果があるのではないかということに気づいたエウレカ体験。
早速実践していきたいと思います。
さて、明日はフォンス・フローリス古楽院の発表会です。
中世からルネサンスまでの様々な声楽作品が山のように演奏されますので、よろしければ足をお運びください。
発表会なので入場無料です。
https://www.facebook.com/events/623498888408625/
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Salicus Kammerchor
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演奏会情報
次回演奏会は
5月の第6回定期演奏会です!
https://www.salicuskammerchor.com/concert
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ウェブショップ始めました!
J. S. バッハのモテット全曲録音CDをはじめ、サリクスグッズをお買い求めいただけるウェブショップを開設しました!
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