声の神秘に魅せられて|まとめ10

Facebookページでやっている企画のまとめです。


声の神秘に魅せられて46

石松三十石船 / 二代目 広沢虎造

https://youtu.be/e92673xt3Ww

喉歌というとやはり中央アジアに多いですが、イタリアにもあるしアフリカにもあるし、日本にもあるんですね。
浪曲の広沢虎造がそうで、この世界では「胴声」というそうです。
喉詰め発声を練習するのに、やはり日本人としては日本語で練習するほうが身近でいいかもしれません。
というかやりたくなりますよね、これ聴いてたら。
私も耳コピでセリフを書き出して、しばらく練習してました。
これ全部覚えてしゃべるというだけでほんと凄い。でもまあオペラ1本暗譜するくらい?でもオペラでも自分の役以外は暗譜しないでしょうし、これ全部一人でやってますからね。うん。やっぱり凄いわ。この芸能は。
それでこれ他にも山のようにお話がありますからねえ。全部でどのくらいを覚えてるもんなんだろう。
西洋も東洋も、昔の人の記憶力ってどうなってんでしょうね。


声の神秘に魅せられて47

Hana Blažiková – The Ultimate Goth

ハナ様です。BCJで初めて見て、素晴らしい歌い手だなと思っていたのですが、ハープの弾き語りを見て更に惚れましたね。
それでこの動画の説明文に、ロックバンドでベースも弾いてますって書いてあって、ご丁寧にそのバンドの演奏のURLまで貼ってあったのですが、これマジですかね?

ほんとだとしたらより尊敬するけど、ハナ様のWikiには書いてないし、同姓同名の別人じゃないかなあと思うのですが、この画質では判別つかず。
どなたかご存じの方いらっしゃいませんか?


声の神秘に魅せられて48

Sing! Day of song – Bobby McFerrin – Improvisation

ビートボックス聴いてて、ああこれBobby McFerrinだなあと思うことよくあります。
ものすごく影響与えてますよね。
ビートボックスってある意味Bobby McFerrinの進化系みたいな側面もありますよね。
ただやはり歌としてのテクニックとか、音楽そのものについてはこの人を超える人はまだいないんじゃないかなあ。


声の神秘に魅せられて49


UNITEAM | Grand Beatbox Battle Tag Team Champion 2019 Compilation

ビートボックスにはソロ、タッグ、チーム、ループなどの部門があって、それぞれ結構楽しみ方も楽しませ方も変わってくるのですが、実は今までタッグってあまり魅力を感じてませんでした。
役割分担がしっかり別れてるのも、ふたりとも同じようなことやってるのもなんかこう中途半端な感じがしちゃってあんまり好きになれなかったんですよね。
そんなわけでこれまでソロ、チーム、ループに関しては紹介してきたのですが、タッグはどうしようかなあと思ってました。
しかしここまできたらタッグも紹介したいなあと思って改めて食わず嫌いを克服して見てみたら、2019年チャンピオンええやないか。笑
曲がまずよくできてますよね。それで二人ならではの表現になっていてそれがわかりやすい。曲自体はめちゃ複雑だけど、二人だからこそできている複雑さ、という意味でわかりやすい。
9’10あたりからの複雑なリズムパターンを違う音でホモフォニックにやってからの片方休んで片方はわざわざ指で5拍子やってますアピールしてからのそこにもうひとりが重なってくるとことかほんと二人というのがめっちゃ活きてて、わかりやすくて複雑。
あとステージングがおもろい笑
3’35 あたりでピンポンやってるのとか。8’30あたりそこそこのヨーデルやっちゃうのとか。
ヨーデルってもうなんというか強制的に人をハッピーにする魔力があるじゃないですか。その特徴を最大限に生かした緊張と緩和ですよね。
かと思ったらちゃんとバトルしてる。5’50あたりとか。
ギャップよねー。惹きつけるよねー。
ビートボックスって大半の人が、テクニックの安定性とか音の綺麗さとか、他人が出せないオリジナルの音とかに目がいきがちだと思いますが(私もそうですが)、このタッグは「いい曲といい演奏」を見せつけてくれます。
それで私は意外だったのですが、ビートボックスのバトルの評価基準は「音楽性、オリジナリティ、ステージング」なのだそうです。
「テクニック」が入ってないんですよ。
ぼかあこれを知ったとき軽く感動をおぼえました。


声の神秘に魅せられて50

Wildsbok (Psalm 42) – World Youth Choir 2007

演奏もさることながら、この曲の白眉は50秒くらいのところで聴こえる赤ちゃんの声です。
しかも鳴き声じゃなくて、これ笑ってますよね。
なんって幸せな瞬間でしょう。
WYC、この時も5−6人日本から行ってると思いますが、ホント羨ましい。

インド音楽の深海から素潜りで特殊ネウマの鍵を拾ってくる話

ついに開いてしまいました。この扉を(喩えを統一しろ)

いろいろ前提からお話しなければなりませんが、寺原太郎さんにインド音楽を教わることになりました。

なぜ西洋クラシック(古楽)の音楽家である私がインド音楽を学ぶことになったのか。

お話したいと思います。


これだから特殊ネウマってやつあ

グレゴリオ聖歌の歌いまわしを書き留めたものを古ネウマ(譜線なしネウマ)といいますが、この古ネウマ、10世紀頃から書かれていたのですが、13世紀頃にはすっかり使われなくなってしまいます。

ネウマについてはサリクスのブログにも書いてます。コチラからどうぞ。

あるいはサリクスのメルマガのアーカイブから更に詳しい渡辺研一郎による記事をご覧いただくこともできます。

音の高低や長短をはっきりとは示せないけど、歌いまわしについてはかなり微細に書き留めることのできるネウマ、これはめちゃめちゃ歌の参考になります。

一刻も早く音大の必修科目にすべきだと思います。

しかしですね、一回廃れてしまった記譜法なので、一部何を表してるのかよくわかっていないものもあります。

それが特殊ネウマです。

特殊ネウマについても詳しく知りたい方はコチラをどうぞ。

何らかの特殊な歌いまわしを示すということだけは確かなようですが、具体的にどういう歌い方を指しているのかよくわからない。

私たちは一応、こうしましょうという取り決めをしてやっているのですが、ほんとに1000年前の人がそういう歌い方をしていたのかはわかりません。


単旋律に全振りのインド音楽

ヨーロッパの音楽は、グレゴリオ聖歌を源泉として発達した的なことを言われると思いますが、まあまあそのとおりで、おそらく多声音楽がこれだけ隆盛を極めたのはグレゴリオ聖歌のせいだと考えられます。

グレゴリオ聖歌というのは(一応建前上)神様が聖霊を遣わして教皇グレゴリウス一世に伝えたそれはそれは神聖な音楽なので、指一本触れてはならぬ。勝手に装飾を加えたり、旋律を変えたりしてはいかんということになっているんです。(一応、建前上)

なので人々の創作意欲のはけ口として「グレゴリオ聖歌に新たな旋律を加える」という方法が生まれ、多声音楽へと発展していった。と一節には言われております。

いずれにせよ西洋音楽は縦方向に複雑化するという選択をとったことになります。

その結果どうなったか、横方向、つまり旋律は単純化していった。

徐々に単純化していったとかそんな簡単な話ではないんですが、少なくとも、特殊ネウマの歌いまわし、またリクエッシェンス(子音をどう発音するかという指示したもの)が、少なくとも楽譜に書かれることはなくなりました。(実践はともかく※ここ重要)

つまりすごく単純な言い方をすると、西洋音楽は「縦方向に進化して、横方向に退化した」

では横方向にフォーカスした音楽ってないのかっていうと、それがインド音楽だと思うんです。

インド音楽の凄さはですね。これもやはりサリクスのメルマガのアーカイブを是非見ていただきたいです。

寺原太郎さんに執筆をお願いした回の、限定公開の動画がめちゃめちゃすごいです。目が回って星が飛びます。

それかとりあえずこれを見るだけでもわかります。

https://youtu.be/AIPraIlSmIk

これまで2回寺原さんのワークショップを受講しましたが、もうそれはそれは顎が地中深く埋まるくらい衝撃を受けました。

ということできっとこの深い深いラーガの海には特殊ネウマの歌いまわしを探る上での鍵があるに違いないと思っていました。

ただ、あまりにもラーガの世界が広大すぎて、どういう勉強の仕方をしたらそこに近づけるのかわからないでいました。


ひょっとしたら落ちているかもしれないものを拾うための方法

最近ようやくひらめいたんですね。星の数ほどあるラーガの中には、グレゴリオ聖歌の旋法に似たようなラーガがあるんじゃないか。

つまりめくらめっぽうにラーガを一個ずつ勉強するんじゃなくて、寺原さんにグレゴリオ聖歌を聴いてもらって「これに近いラーガ教えて下さい!」って言えばいいんじゃなかろうかと。

いやもちろん突拍子もない話といえばそうだし、考えようによってはめっちゃ失礼なんじゃないかとも思いますが、これならもしかしたら効率よく鍵に近づけるかもしれないと。

そう考えたわけです。

寺原さんとは路上でパスタを一緒に食べたこともあったのできっとわかってくれるだろう、わかってくれるかな??ドキドキしながら連絡を取りました。

寺原さんからの返事は意外なものでした。

「レッスンというか、共同研究にしませんか?」

いやーありがたいけどまだそういう段階に達してもいない話な気もするしーとむにゃむにゃと考えながら、今日zoomでミーティングさせていただきました。

グレゴリオ聖歌、ネウマ、そして旋法のことを私が説明し、音域や、音階(タート)や、主要音や、旋律定型などラーガとの共通項をあぶり出していきました。

インド音楽にもこう少しは楽譜っぽいというか、そういう記号的なものがあったらいいなあという淡い期待があったのですが、そういうものはないそうです笑

サレガマでかかれたメモや、それについての説明書きみたいなものは言葉では残っているけれど、記号のようなものはない。

そもそも伝承の方法として、ちょっと前までメモや録音も禁止するような感じだったそうです。

ただただ音楽をシャワーのように浴びて、繰り返し繰り返し練習する。

うーむ想定はしていたがなかなかの徹底ぶりだ。

というわけでそういう方向はすっぱり諦めて、当初の方法に立ち返ることに。

私がグレゴリオ聖歌を歌ってみて、似たようなラーガがないか聴いていただく。

いくつかの旋律定型や、曲を聴いて頂いたところ、今エレウシスでもやっている入祭唱Judica me DeusがBhairaviに近いとのこと。

というわけで次回から私はラーガBhairaviを学ぶことになりました!

バンザイ!一歩進んだ!


今後の展望

ここから先はまずこのラーガを勉強してからじゃないとわかりませんが、音の運び方やゆらぎや装飾的な動きを学んでいくことで、それをグレゴリオ聖歌に活かしていくことができるかもしれません。

Judica me DeusをBhairavi風に歌うというのもやってみたいな。今思いついたけど。

あとは一応なんとなく旋法にもそれぞれ情緒というか、キャラクターがあって、さらに、聖務日課では歌われる時間が決められている。

そういう点がラーガにも共通するので、例えば朝のラーガと朝課で歌われるグレゴリオ聖歌の特徴を比べてみたりとかも面白そうだなあと思っております。

声の神秘に魅せられて|まとめ9

Facebookページでやっている企画のまとめです。


声の神秘に魅せられて41

SARUKANI – ULTRA POWER

一番最初に紹介したビートボクサー、so-soのグループです。

もう空前絶後としか言いようがありませんね。概算300種類の音に20種類くらいのエフェクトかけてるんでしょうか。

しかしね、最初聞いた時は、これどうやってんだろうな、この音は誰の音だろうな、とか考えながら聴いてるんですが、15秒くらいでそんなもんは弾け飛んで思考が停止するんですよね。そのくらい没頭できる音楽だと思います。

それでまたいかんいかん分析しようとか思い直して、最初から聴き始めるんですが、また15秒くらいで思考が停止してってそんなことを500回はやりましたかね。笑

でちょっと思ったのは、ハイハットの音で、これso-soのハイハットじゃないかなって思ったのがあって、これ利きハイハットとかやったら面白いんではないかと。

30人分くらいのビートボクサーのハイハットだけ集めて、ランダムで流して、当てるクイズ笑

楽しそー!


声の神秘に魅せられて42

Franzl Lang – Schweizer Yodel Ari

ついに王様を紹介する時が来たようですね。

いやこの動画ずっと探しててようやく見つけたというだけなのですが。

お忙しい方は1’08から見てください。

この曲歌詞がないので、真似するのが簡単で、確か高校生の頃よく練習してました。この1’08から始まる中間部のところは特にエチュードとして最適かと思います。

そしてこの曲一回だけ人前で披露したことがあります。芸大バッハカンタータクラブの春合宿の余興で。

爆笑をとりました。いい思い出です。覚えてる人いるかなー。


声の神秘に魅せられて43

Cuncordu e Tenore de Orosei – Regina Coeli Magnificat

サルデーニャの合唱で、特殊発声(喉詰め・カルグラ発声)を使っていないという建前で、宗教曲を歌うのがCuncorduというそうです。

有名なテノーレスは一番下のパートBassoがカルグラ発声、下から二番目のパートが喉詰め発声を使います。

ただ録音をよく聴くと、たしかに一番下のパートは普通の柔らかめの声を使っていますが、下から二番目のパートはこれ柔らかめの喉詰めなんじゃないかと思います。

曲によって、グループによってもその程度は様々ですが、一応建前としては普通の声、ということのようです。

この曲は完全にラテン語で、合唱やったことのあるひとなら聞き覚えのある言葉かと思います。

Regina caeliがalleluiaから合唱になるのはいいとして、Magnificat anima までソロでmeaから合唱になったり、しまいには言葉の途中から(第2節はspiritusのriから)合唱になったりするのはかなりの衝撃です。

solo「こんにち」

chor「わーー」

みたいな衝撃です。

面白いですよね。あとこの音色の構成はかなりブルガリアンボイスに近いなと思います。高いほうが地声感強めの倍音キンキンな感じ。下の方は柔らかい。

クラシックの合唱だと音色を均一化させていこうと努力しますが、そういう発想はまったくないですよね。

テノーレスなんかは発声の方法そのものを変えてしまって、それで合唱にしてしまおうというのですから、非常に示唆に富んでいます。


声の神秘に魅せられて44

How to sing Gamakas

https://youtu.be/AIPraIlSmIk

声というか歌の神秘ですかね。

声は至って普通なんですけど、歌い方でこんな変わるか!ていう動画です。

短い動画ですが、インド音楽すげえって一発でわかる動画です。

同じ旋律でも音の運び方でまるで違ったものに聞こえる。

これはもう本格的に学ばないとだめですね。

早速レッスンを申し込まねば。。。


声の神秘に魅せられて45

REMIX 🇿🇦 | INSANE

南アフリカのビートボクサーRemixによるInsaneという曲のアレンジ?原曲があるのかないのかよくわかりません。オリジナルかも?

とにかく冒頭から喉ベースが低すぎる。男性の平均最低音のLow Dでカルグラしてます。そこからの展開も凄い。

特徴的な喉ベース、あるいは途中からはノイズベースっていうんですかね、違いがよくわかりませんが多分音的にはそう分類されるんだと思います。

他のテクニックももちろん素晴らしいけどベース音にかなり特化したパフォーマンスです。

驚くべきは彼16歳。

どんな仮声帯しとんのや。

声の神秘に魅せられて|まとめ8

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声の神秘に魅せられて36

すらぷるため – 嫌だ、千欲しい beatbox

ビートボクサー紹介したい人は山のようにいるんですが、音楽的にやっぱり面白いっていうことと、この方が他の動画でやられてることもかなり興味深いので紹介したいと思います。

これ凄く面白いです。特にカペラの時、あんなに手動かす意味あるんですか?って言われるのですが、カペラでも検証してみたい笑

直立不動で歌ったときと普通に歌ったときと。

昨日ノイズボイスカラオケでたまたま立ち方(というか状態)とパフォーマンスを2種類やって検証できて、それが本当に感動的な変化だったので、一回やってみたいなー。やってくんないだろうなー笑

あとこれ

これ体感ですね。ビートボクサーの体感を知る貴重な証言だと思います。実際起こってることは違っても、本人がそういうように感じてるということは無視できないことだと思います。

あと全然関係ないですが、喋り方とか発想とか見た目とか、広大のホルン科の後輩にも似てて、この二人とても仲良くなれそう笑

好き♡


声の神秘に魅せられて37

Gorgoroth – Under the Sign of Hell

ちょっと前に話に出ました、Gorgorothです。

声も凄いですが、Drumが凄いです。

声フェチの私がDrumがすごいからという理由で好きな数少ないバンド。というか唯一のバンドですね。マジでスネアの音が意味不明ですよね。まな板をすりこぎで叩いてるみたいな音。

手首大丈夫?っていう音です。

GorgorothでこのドラマーVrolokが参加してるのはこのアルバムだけで、そういうわけでこのアルバムだけ好きです。ほかはそうでもない。

Gorgorothはビジュアルもほんとに素晴らしいのでぜひ画像検索してみてください。


声の神秘に魅せられて38

The Power of the Russian Oktavist

そういえばオクタビストってまだ紹介してませんでしたね。

一時期ちょっと気になって調べてた時期があったんですが、結局どういうことなのかわからなかったんですよね。

内視鏡とかMRIとかで撮った映像とかないのかな。と思って調べてみるとこういうのはありました。

ストローバスってエッジカルグラみたいなことですかね?

裏返り方がそれっぽいのですが。

いずれにしてもこの画質ではよくわからない。。


声の神秘に魅せられて39

Chirgilchi – Igor Solo, Oidupaa style

今更Igor Koshkendeyです笑。

大好きなんですけど好きすぎて当たり前過ぎてなぜかここに載せるの忘れてました。

そんでほんとに載せてなかったっけ?って思って今見返しましたがやはりまだ載せてませんでした。

これタイトルがOidupaa styleとなってて、アコーディオン持ってるだけでOidupaa styleとは言えなくない?って感じなんですが、3’40過ぎくらいからですね。Oidupaa styleやってるのは。

Oidupaaはスグットとかホーメイとかやらないので。

けどこの演奏の構成、完っ璧じゃないですか。これ以上ないくらい完璧。見事すぎる。指一本触れることができないくらい完璧。

Igorが本格的にOidupaa styleでやってるのはこちらの動画になります。

げきやばですね。

全く。

えっぐい。

なんて美しいんでしょう。

全身総毛立つとはこのこと。


声の神秘に魅せられて40

The Bulgarian Voices Angelite – Dragana I Slavei

そういえばブルガリアンボイスもまだ紹介してませんでした。

メジャーですから紹介するまでもないかもしれませんが。

来日公演を2年前くらいに聴きに行って、思ったのは、アンサンブルとしても発声としてもごく普通のことをやってるんだなということでした。

よくイメージするいわゆるブルガリアンボイス的な発声って上2つくらいで、低い方はそんなに分厚い倍音豊かな発声では歌ってないんですね。比較的柔らかい声です。

高い方を薄くならないようにしてるからこういう音色配置になりましたというだけ。な印象を受けました。何か凄く特別なことをしてるわけではない。

それでその後ブルガリアンボイスのワークショップを受けて、非常に感銘を受けたのは、この芸能における優先順位です。

1.言葉
2.こぶし
3.旋律
4.発声

声のことは言葉とこぶしと旋律の結果であって、最初からその声を狙ってるわけではない。というような話でした。

インド古典声楽でも、歌用の特別な声はないということなので、非常にそこはリンクします。発声は結果であって、発声が目的化してしまったらむしろその声にはならない。そういうものなのだと思います。

それから最近改めて気づいたのは、なんかこうブルガリアンボイスって装飾(やメリスマ)のところでやたらグロットしてるイメージがあったんですが、ちゃんと聴いてみると全然やってない笑

ほとんどやってない。

この動画でもソロの人がちょろっとやってるだけに聞こえます。音があんまり良くないのでちょっと判別できないところもありますが。

こういう発声でも歌いまわしはかなりなめらかですよね。

旋律をブツブツ切ったりすることはない。

非常に示唆の多い演奏だと思います。

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

光岡英稔BUGAKU講座|8回目

先週土曜日、久しぶりにBUGAKUの講座を受けてきました。

BUGAKU・韓氏意拳関連の記事はこちら↓

BUGAKU1回目 https://wp.me/p7Ktcz-cpK
BUGAKU2回目 https://wp.me/p7Ktcz-dGh
BUGAKU3回目 https://is.gd/Gm9C17
韓氏意拳講座1回目 https://is.gd/D3RjiJ
BUGAKU4回目 https://is.gd/37Oxg1
BUGAKU5回目 https://ux.nu/AmsQM
韓氏意拳講座2回目https://is.gd/G7l53a
光岡英稔BUGAKU講座|7回目 https://is.gd/xiBfFB
光岡英稔韓氏意拳講座|3回目 https://is.gd/rDRgMX
光岡英稔韓氏意拳講座|4回目 https://is.gd/8BX3eO

最近土日の予定が全然合わせられなくて、金曜夜の韓氏意拳の講座に行くことが多かったので、今回BUGAKUはほんと久しぶりでした。

それも昼間は仕事だったので、夜だけの参加になってしまって、BUGAKUの講座は午前午後の流れがあっての夜の講座なので、ついていけるかかなり不安でしたが、せめてその場の空気だけでも吸いに行こうという思いで参加しました。

結果本当に行ってよかった。

生きながらにして生きていることを思い出す営みが芸術だと思っているのですが、この講座はまさに芸術でした。

特に観法の時間がプレシャスすぎでした笑


身と骨

BUGAKUの基本として、四方の「からだ」というのがあります。からだという漢字は今の日本では「体」という字を使いますが、古くはもっとバリエーションがあったそうで、「軆・躰・體・骵」と書いたそうです。

この4つは自分の四方のそれぞれの経験を表したもので、右前を軆、左後を躰、左前を體、右後を骵といいます。

そんなわけで身か骨かというのはひとつのポイントになってるっぽい(よくわかってない)のですが、今回は骨に注目して、これを経験的身体として捉えられるかどうかというのをみていきました。

経験的身体というのもまた説明が大変難しいのですが、物理的身体、あるいは恣意的身体(頭で妄想した身体)とは違う、経験としての身体ということです。

その喩えとして、「鏡を見たことのない人間の身体性」というのが挙げられていて、これはわかりやすいと思います。客観的に外から見た自分、というのを知らない、主観とも違う、経験としての自分のからだ。

雲を掴むような話なのですが、やはり説明してわかるものではなく、経験してみないとわからないことだと思います。

あ、今更ですがいつもの前置きを。説明してもわからないことを私は今文字にしています。

目的は自分の経験の整理がメインで、そこから生まれた思考のメモ、そしてなんかわからんけど面白そうという人が引っかかってくれないかなあという淡い期待です。笑

このどうしようもない駄文から何かを得ようとは思わないでください。経験を伴わずに言葉から掴み取った解釈は、書き手の経験からは程遠いものになります。

多分、私たちは「古典」を徹底的に誤解したまま理解した気になっている。

書き手の経験的身体へのシンパシーなくして(つまり鏡を見たことのない人間への共感)、その人が言わんとすることは理解できない。

えー少し脱線したようなしてないような。

私たちは身体を物理、概念、恣意ではかることに慣れすぎている。

それをハッキングして経験の世界へと誘う稽古が必要だということです。

というわけで今回は骨に注目して観法を行いました。

骨を一本一本観ていく。多分自分の骨を見たことのある人はそう多くないだろうし、一本残らず全部見たという人は皆無でしょう。見えないものを観る、というのが稽古の大きなめあての一つだと思います。

この「観法」、私も朝のルーティンで立ちしゃがみの型とともに毎日やってますが、今回の光岡先生の観法はほんとに芸術でした。

観れば観るほど身体が喜んでいるような、自分の経験を回想しているような、祖先とつながるような、そんな時間でした。

あ、そう、経験というのは3種類あるんでした。個人の経験、種の経験、生命の経験。生命の経験はちょっと難しくてまだわからないけれど、種の経験はわかります。種として、先祖代々の経験です。前世の記憶というとオカルトっぽいですが、おばあちゃんの記憶というと途端に現実味を持ちますよね、私たちでも。

おばあちゃんの経験が私の中にあるんですね。そうした種としての経験の蓄積にアクセスするって感じでしょうか。

現代人にわかりやすく言うと、「本能」とか言われてるもんに近いかもしれません。近いだけで全然違うと思いますけど、あえてわかりやすく言えば。

そうした経験が骨の一本一本にある。一本の骨には一本の骨の世界がある、という言い方もされえていました。

コンクリの床に裸足で正座して結構長い間観法やってましたが、不思議と今回は脚が痛くなったり痺れがきれたりということがありませんでした。

これまでは結構跪座に時々しちゃったりしてごまかしてたんですけど、今回は大丈夫でしたね。うむ。日頃の稽古の成果かしらとちょっと嬉しかったです。


線の世界

前回BUGAKUに参加したときに、自分の後ろ側に細い棒を2本おいて、定位になったり不定位になったりということをやりましたが、それを更にわかりやすくした試し稽古をしました。

右足の下に縦に、左足の下に横にマスキングテープを貼ると、定位、逆にすると不定位になるというものです。

右は縦気、左は横気なのでこれはわかりやすい。

傾向に沿っているとき定位する、そうでないとき不定位になると。

そしてこれをテープなしでやる。右足を縦に切って左足を横に切る、という感じ。

「線の世界に入る」だとかなりちんぷんかんぷんでしたが、これはやってみたらわかるという感じで腑に落ちました。

この定位・不定位を瞬時に切り替えながら所作を行うと。そして流派によってこのバランスが異なる、カポエイラは不定位の割合が大きいし、日本や中国の武術は定位の割合が大きい。ただし、どっちかだけというなは有り得ない。それは武術にならない。

音楽の場合どうでしょうか。以前弦楽器や管楽器の楽器の持ち方が不定位だというようなことを書きましたが、おそらくこれも音楽の種類によるでしょうね。

ルネポリ歌うときは定位の割合が大きいだろうし、バッハを歌うときは不定位の割合が大きい。そして音楽でもどっちかだけということはないでしょうね。

バランスとスイッチングが肝になるんだと思います。


「気」は流れない

これも私ちゃんと理解できたわけではないですが、一般に気の流れとかなんとか言われてるのは一種の錯覚なのだそうです。

気は偏在し、動かない。空間のようなもの。空間は定位し、移動しない。

しかし動いて見えるのは感覚が動いているから。動いていない「気」を動いていると錯覚する。

うん。これ私の経験と結びついてないからわかんないわ。

しかし結構衝撃的なパンチラインですよね。気は流れない。

普通に言いますもんね、気が散る、気が向く、気が回る、気が進む、気を引く。なんかこれ気が動くもんだという前提ですよね全部。

今回改めて思ったのは、教えるってことは、経験のおすそ分けのようなもんだということ。知識の切り売りでは教えたことにならないんでしょうね。

自分の経験を、相手にも経験させる。

その上でその経験に結びついた理を伝える。

本読んだだけではわからないことがあるっていうのはそういうことなんだと思います。

身体が経験するかどうか。

実感のない言葉は響かないってのにも似てると思いますが。

あとあれだ、古東哲明先生の言葉で「ある思想をほんとうに理解するには、理解する側の変容が必要」というのがあるんですが、これもそういうことですね。

理解する側と身体経験を共有していないとなにもわからん。

というわけで、私と身体経験を共有してほしいので、皆さんも是非一緒に光岡先生の講座に行きましょう!!